仕事の流儀

この写真が何か分かる人は、私ともう一人だけ

40年間(1975〜2015)のサラリーマン生活は、色々のことがあったが、一言で言えば、「俗人的栄光なき勝利」だったと総括している。

Bad event

とにかく色々のことがあった。記憶や印象の強い出来事を思い出すままに綴ると、悪い事や思い通りにならないことが先になる。

一番というと、やはり40代の時、部下のミスの責任を問われ、マスコミの矢面に立たされ、袋叩きにあったことか。2日間にわたり全国的な報道で、NHKはじめとする多くのテレビ局に名前や顔が露出した。この時、特段全国的に大きな出来事がなかったのでこういうことになってしまったようだ。

マスコミが「本社総務からここに来るように言われたので」と、「トカゲの尻尾切り」ではないが、組織としての責任というより、現場の責任者として、管理職の私が矢面に立つことになった。今のマスコミ対応では考えられないことだと思うが。

テレビや新聞での報道に対し世間から、組織の幹部級の者の会見などと間違えられたりもした。家族から、近所の人が「ご主人、偉い人なんですね」と言われたことを聞き、馬鹿な話、責任を取るということでは、えらく出世したものだった。

そして、幾度となく管理監督責任を問われ、注意処分を受けることとなった。やはり管理能力がなかったのかと問い直すところだ。

同じ時期に、部下の職員が自殺するということもあった。朝出勤しないので、色々手を尽くして探し、最後に警察官同伴で自宅に入ると、自殺していた。

捜査に来ていた刑事課の方に「あなたが殺したのか」と問われた時は、私がパワハラの加害者を疑われたのかと、一瞬はっとしたが、後で膨大な遺書が出てきて、疑いが晴れた。

次は、被害者としてのパワハラで、二階級上の者に、窮鼠猫を噛むよろしくブチ当たり、「うつ病」のオマケ付きで寝込んだことか。首になる覚悟とは裏腹に、完全に怖気づき、寝込んで、降格させられた。パワハラは他にも数回経験している。

いじめと同じで、「あーだ、こーだ」の先に、主犯者が全く反省しない・させないパターンである。世の中が事態を複雑にし、本質が隠される。

現職最後の10数年は、今もお世話になっている、精神科医の医師の指示や相談をすることによって、何とか業務を乗り切ることが出来た。

そんな中、更に、どうしていいのか困惑と混乱を来たした出来事は、初めて経験した部署での10人の課の課長の時、人事異動で、課の中に、その業務に全く無経験の者が7人も配属され、毎日お客さんと接する課の仕事が全く機能しなくなったことだった。

4か月の迷走の果ての落ちが、私の降格と引き換えに、経験豊富な課長が私の代わりに着任し、更に人員補充までの手厚いフォローを勝ち取った? 4か月前の人事異動は当然、私がしたものでないのは明らかだが、自分の身を呈して、私の意味する組織を守ることができた。

仕事は、担当外のことも押し付けられた。どうしたことか、その組織で扱ったことのない新規・臨時の業務が発生した時、私が指名されたことがあった。なぜ私なのか不思議だった

天候に影響される職場では、ひと夏に10回も台風が襲来し、その対応に追われたこともある。ツキもなかった。

そして、時々感じていたことだが、エリートと言われる人達がやはりいて、どうした訳か、みんなが一般的に嫌がる仕事や部署に回されることがなく、とんとん拍子に上に上がる光景を、目の当たりにしてきた。

私の思い込みだったこともあった。大事な会議の席で、信頼していたある部門の専門家(ここが思い込みで、この人が私をどう思っていたのかなど全く理解せずに、むしろ嫌われていたのかもわからない.)にアドバイスを求めたが、無視され、とっさに回答することが出来ず、会議を混乱させて大恥をかいたことがあった。後にこの人が、私のポストについている。

そして、最後の職場で、仕事をすることにおけるとどめということがあった。

あえて恥を忍んで記すと、それは降格後、直属の上司に、ずいぶん前の職場の10歳くらい年下の後輩が赴任してきた。

この時も、自分の仕事がしやすいようにとの配慮の異動だなどと、ずいぶんお人好しの解釈をしたりしたが、決済を、期限ぎりぎりまでしない仕事のやり方に1年以上悩まされることになり、「早く決済をしてくれ」の要望に「ろくに仕事もできないのか」の罵声まで浴びせられてしまった。

プライドも何もかも崩壊し、仕事が手につかなくなってしまった。

以前、2つの部署で約300人のトップだったこともあったし、罵声の相手が局長級の最上級者だったりはしたが、若い係長の罵声で、落ちるところまで落ちたという絶望感を味わった。

最後の最後は、私の退職することすら気づいてもらえず、企画した上司の方が「すいません、退職されることを知りませんでした。この日にもう企画しましたが、出席できますか」と言われ、都合がつかず、送別会もやってもらえなかったという結末だった。まだまだ思い出すことは山のようにあるが。

経歴については、20年「ひら」で、係長・課長補佐で10年、課長で10年。ただし、後半5年で課長から「ひら」まで一気に駆け降りた。(天下り、だだ下り あーあ)

降格の心境

社会的地位を失うということで、その瞬間から、今までの周囲の人間関係の対応も変わるし、敬意も払われなくなる。いっそそのままの地位で退職した方がいいようにも考えてしまうところで、本当に情けない話だ。

反面、疲れ果てた精神の病気から一旦少しは解放されるように思われる。また何よりどんなに肩身の狭い思いをしようが、家族の生活を維持するということは継続することができる。

さらに今まで背負った責任も軽減され、本当の意味での仕事の楽しさを取り戻せるかもわからない。私の場合は、現職中は取り戻すことはできなかったが。

私の降格の決断は「今まで、ここまで降格した人を見たことがない」という人事担当の言葉に何かしらつられてしまったように思う。本当に情けなく、人に話せたものではないところだ。

しかし、時間を経るにつれ、誰も経験したことのないものだと再評価し始めた。

とは言え、くれぐれも私だけにしてほしいし、多くの前途ある仕事人には、あくまで他人の体験であり、同じ体験をしないでもらいたいと祈るばかりだ。

40年間もこんなことばかりでは、生きている心地がしない。私に何か問題があったのか。

そういう意味で自分の仕事のやり方・流儀を推し量ると、正しいと思う範囲の、今流行りの「忖度」もしたが、派閥とは全く縁がなく、「一匹狼(チワワ)」で通して来た事、更に、自分としておかしいと思うことには、上司であろうが、意見してきたことなどが、思い当たる。因果応報。自分で招いたことなのだろうか。

そんな中、年上の元上司で、最高上位まで登りつめた方と、仕事の仕方、キャリアアップの力学などについて、一般論として、話をすることがあった。

そこで興味深いことを伺った。それは、上司に期待しすぎていたのではないかということ、上司は弱いし「わめき」もするということ、それをうまく丸め込む力量が必要だということ。なかなかのうんちくで、なるほどという思いだ。

反面、今完全に腹には収まっていない。

なぜならそれは、大きな事故、事件の時に、トップの身の処し方というか、対処の仕方は、その資質をさらにその上位者が認めたうえで、そのポジションに置いたものなのだから、悠然泰とした態度はどんなことをしても、部下に示すべきものだと思う。

しかし後半の多くのトップがオタオタし、震え、さらにはわめき散らすがごとき行動を見るにおいて、丸め込むなどということの無意味さを感じてしまった。

このあたりの理屈は、これからじっくり掘り下げてみたいと思った。暇なので、40年の経験を「過ぎたこと」で済ませたくない、厄介な性格が出てきた。

Good event

一方、こんな悪い事、嫌な事ばかりのようでも、少しは良い事、ワクワクしたこともあると思う。

採用後の最初の4年間は、私の仕事への対応能力が未熟だったことは別にして、何か「物を造る仕事」に関われたことは本当に幸運だったと思う。

さらに、初めて職場にパソコンが入り、マルチプランという表計算ソフトを、人脈のところのT氏に教えて頂いて、初めて使った時である。それまでは手書きの仕事だったが、このソフトで殆ど全て出来るようになり、もう一人仕事をしてくれる自分が現れたような、夢のような体験だった。

パソコンが導入されたのは、1980年代後半くらいからで、かの有名なビル・ゲイツがマイクロソフトを立ち上げ、パソコンのOSに、MS―DOSを使って一大勢力に拡大していった時期である。その前の段階は、ソロバンの代わりに電卓が出た時代だ。

仕事のやり方が、大きく変化した、正にその時代を体験したのだった。

また、T氏や、今も現職のS氏やU氏、私をはじめとする若手の職員が合同で、HPのプロジェクトを立ち上げ、HPの初期の時代に、職場の費用を一切使わず、PTだけで運用を開始し、日ごと、アクセス数が増え、100万回を超えて急増する光景に胸を躍らせることもあった。我を忘れて楽しい時間を持つことも多少はあったようだ。

そのHPは今もあり、その中のあるファイルの名前が今も現存している。30数年前にT氏が命名したもので、もはや伝説になろうとしている。

そのT氏と最近確認したことだが、インターネットが普及する以前に、このプロジェクトで、普通電話の一般回線を利用し、パソコンとパソコンでパソコン通信の実験をしていた。当時、「電子掲示板」と言われていたらしい。

黒い電話機で「今から文書を送る」と連絡し、ほんの数行の文章が、遠くに設置したパソコンからパソコンに送ることができた。貴重な体験だった。

また、ほんの細やかなことで忘れられないことがある。先のマスコミ事件の直ぐ後で、外部講師を招いた研修会があり、その講師の口から「どこそこの職員の接客対応は最高です」と、私の部署が話題に上がった。

何から何まで上手くいかない時に、「そうくさるな、頑張れ」何かに励まされた気がした。本当にささやかな思い出である。

 また、先見の明と言える出来事にも遭遇した。それは1998年の今から25年も前の事ことで、関西一円から集まった関係者の会議で、当時は、まだテレフォンカードのようなペラペラのプラスチックカードが世の中の主流だった時に、この会議で、「これからはICカードだ」と多くの人が発言していて、訳の分からない私がキョトンとする中、会議が進んだことを記憶している。 先を見通す力を思い知った出来事だった。

他にもまだまだ山のようにある。勤続40年なのだから。

コロナの時間で

今、コロナ危機のまさに最盛期の中に身を置いて、謹慎状態の中、改めて現職40年をじっくり振り返ることを始めた。配属先ごとの具体的な出来事を1つ1つ検証してみると、

仕事については、後任者が引き続きやれるようにすることは当たり前で、仕事のやり方や仕事そのものを出世の駆け引きに使うことなどありえないと考えてやってきた。

それでも、パソコンを使っての仕事を、最先端で進めた1980年代後半当時、「これで人事異動ができない」と、ある上司に言われた時は、この人は、このような考え方をするものだと呆れたことを思い出す。

私はパソコンさえできれば自動的にだれでも仕事ができると考えたが、この上司は私が誰にも教えず、独占するとでも思ったのかもしれない。

ところが、同じ係でそのまま係長、係長から課長に昇任するなどあり得ないと思っていたが、この方を含め、多くの人がその人しかできないということなのか、昇進している。仕事ではいろいろあるのだと思う。

また、仕事をする上で、影の影響者がいると言われる。本人に知られることなく、異動などで影響を与える人のことだ。通常は良い響きを思い浮かべるが、私の場合はこの上司だったかもわからないと、この間気が付くことがあった。

なかなか表には見えてこないはずだが見えてしまい、そして結果としては良い影響ではなかったように思われる。

17年間あまり異動のたびに、色々な場面で登場し、どちらかと言えば、私を排除する動きをされていた形跡があり、そのことがある程度ハッキリしたことがあった。

それは、年賀状のやり取りもしていなかったにもかかわらず、関わりがなくなってしばらく時間を経過した後、この上司から年賀状が突然届き、どうしたのだろうかと思ったことがあった。

その時は、私にも少しは仕事上の影響力もついていた時期だったので、再び私と関わりを持つことになることで、私が何かするのではないかと考えたのではないかと思う。

私のこれまでの行動が、そのような情けない人間に見られたものかもしれないと、自分自身反省した記憶がある。

一方、私にも部下と呼べる人達がいた。何をおいても良くしていただいたことに感謝したい。そこで、多くの優秀な方に助けられてきた。楽しい思い出である。

中にはなかなか調子の上がらない人もいた。能力がなかったとは一概に言えないし、彼らも私と同じように上司に対する反感もあったのかもしれない。

その意味で言うと一言に尽きる、人間としての厚みと言うか懐の深さが私にはなかったのだろう。くやしいがこれは反省とか何かではどうすることもできない。経験で造られる部分はあるとは思うがご勘弁願うしかない。

また、組織の中にいると、その位置でそれぞれ責任を負うが、真に責任を自分に課してしまう人がいれば、他の人に転嫁する人もいる。組織では当たり前だが、人生をトータルで見て、個人の生活になった時、生き方などに対する責任はだれにも転嫁することはできない。

また、先ほど述べたように、選ばれた人には、導かれる道があるのかもわからないが、悪い事ばかりを思い出すにつけ、よくぞ自分の仕事に対する姿勢を一貫して貫けた、ということは本当に「勝利」なのだと改めて感じることができた。

更には、見えてなかったことなども、薄ら浮き上がってきて、本当に一人よがりだが、良いことも見えてきたような気がする。それは、 具体的には

○ 物を造る事業の広報PRをやれた

○ 最長の部署が、人事部門(管理部門が良いということは偏見かも?)

○ 組織の顔である総務部門を初めそれぞれの部門の庶務を経験できた

○ 労働組合の委員を経験できた

○ 新規の難題をコンピュータシステム導入で切り抜けた

○ 最前線の現場の職場で仕事ができた

○ 事業部門の再編成に参画・主導できた

○ 最終数年間、降格まで経験するも、まったく新規の業務を経験できた(高齢になっていたので、自分自身では対応不能だったが)

など、肯定的に評価できるようになった。感謝である。

40年間で、正式辞令の出た人事異動は、16回。平均2年半で動いたことになるが、最長は7年で、最短が4か月だった。

今更終わったことだと思われるかもわからないし、単なる1人の仕事人生、40年間の事象の検証でしかないかもわからないが、今まさに仕事人生を進んでいる方の、ささやかな応援というか、参考にしていただければ、何か価値があるのではないかと思われる。さらに進めたい。

よくよく考えると、内部の資格試験には合格したとはいえ、高校卒業の学歴でここまでやれたのも、世間知らずで跳ね返った自分だったからだろうし、良くやったと思っていいのだろう。

繰り返しになるが、リタイヤした今、こうして幸いにも健康で過ごせていることを思うと、一言で総括した方がスッキリする気がする。正に「俗人的栄光なき勝利」だった。当然出世はしなかった。

緊張を強いられた記憶

仕事での緊張感は、短期間であったり、長期に及ぶものであったりと様々な様相で現れた。良し悪しで計るとやはり悪い部類かと、どうしてもこのように緊張を悪くとる。 緊張感を嫌うことが、私の一番弱いところなのだろう。緊張感があるから良い仕事が出来き、大きな喜びを感じることができるのだと、最近の暇な状況で、納得するようになった。結局、緊張感を楽しむことができなかった。

順を追って主なものを書き出すと

1週間余りの毎月の書類作成処理の緊張

1月余りの年度末の予算処理の緊張

1月余りの年数回の業務処理の緊張

1週間余りの毎月決裁のチェック受けの緊張

1年間のパワハラの緊張

2年間の期限までの新システムの構築と事業再編成の緊張(2回)

4年間の最前線での現場処理と管理監督業務の持続的緊張

3年間の全事業再編の緊張

1年間の介護と並行した、土日なしの長時間拘束の緊張

2年半のパワハラの緊張

4か月の素人組織の混乱の緊張

このようなものがあげられる。

それでも何とかこの緊張感に悩まされながらも終わりをむかえると、それなりの充実感・解放感は味わった。良しとするしかない。

仕事での人間関係

リンク 人間関係

交通事故には気をつけましょう

先輩Y氏との会話から(知られることのないもの)

色々の場面でお世話になっている先輩Y氏とは今も時々お茶を楽しんでいる。

先日の会話の中で、古い話になるが、先輩は、ある施設の開発事業に、先頭に立ち最前線で取り組まれたことが話題になった。

多くの課題、事項、問題に1つ1つ取組みその事業を遂行された。

私も他の部署だったが、関連があり、自分の担当部分では、分担できたと思っている。

そのことについて、当時の私の立場上、なかなかすんなり「はい」と言って援護できたかどうか、疑わしい部分もあったようにも思う。ただし少なくとも、先輩の苦労を面白がったり、足を引っ張るようなことは決してしていないと思っている。

また、先輩の苦労話の大部分が共感できる。あの時のあの調整はやっかいだっただろうという風に。

今もその施設はあり、多くの人の生活に貢献している。

その過程での出来事は、我々2人、特に先輩の心の中には、厳然と存在し、その時の生きた証としてそこのあるのだと思う。そしてそれは、決して人に知られることがない。

さらに、鉄道についてで述べたように、これはあくまで聞いた話で定かではないが、京都市営地下鉄鞍馬口駅は、桃山高校の先輩達が、土木と建築を担当されたということも、決して知られることのない話である。

仕事での忘れられない出来事・関連した出来事

感光紙の青焼きからコピー(機械の名前の「ゼロックスして」と言われる)へ

写真機・TVカメラがフィルムからデジタルへ

自治省(現在の総務省)への出張

日本国有鉄道がJRへ

有線の黒電話から携帯電話、スマートフォンへ

給料の現金支給から口座振込へ(数億円の現金を、個々の給料袋に詰める作業に参加)

ファックスからメールへ(アナログからデジタルへ。ファックスを送るとき電話番号を間違えてないか気にする)

手書きからワープロへ(和文タイプに悩まされる(漢字の活字を探しながらの作業))

鉄道駅の改札口で駅員に定期を見せての通勤から、自動改札機へさらに磁気カードからICカードへ

最近経験したzoomでのリモート会議

財務省近畿財務局職員の手記等の開示に思う

一個人が、このような文書を表すのは、どうなのかと思っていたが、あの職員の方のことを思うと、あえて思いを述べたい。

上司の命令に従うことは当然だし、当たり前のことだが、その命令が明らかに法的に違法であるように見えて仕方がなく(国家公務員法第82条 職務上の義務に違反し、又は職務を怠った場合。国民全体の奉仕者たるにふさわしくない非行のあった場合)、

しかも社会的規範からしてもおかしいものであった時(今回は公文書改ざん)、はたして盲目的に従って良いのか。

多くの仕事人が頭を痛めるところであり、あまり経験したくない場面だと思う。財務省近畿財務局の自殺された職員の方の心情を思うと、言葉を失ってしまうほどの怒りを覚える。ご自身の命を引き換えに正義を通そうとされたのだと思う。心から哀悼の意を表したい。

そもそも財務省という組織に、かかる公文書改ざんという行為を抑止する力がないということが、根本的な問題なのだろう。

自分の仕事時代を思い返すと、命令には従いつつも、かかる命令が出されないように、事前にわめいたりして、バリヤーを張ったりしていたように思う。得てして、何も言わないだろうという人間に対して、このような命令が下りてくるような気がしてならない。

公務ではあってはならないことであるが、上司に逆らうということは、昇進も含め、これからの仕事に決定的な影響が及ぶし、人生そのものを、社会的評価でいえば、失うことにもなるだろう。

しかし、仕事人生を送る前や退職後の自分の生き方を思い、冷静に見れば、仕事だけの世界では従うことになるのだろうが、正に正義とは何かを人生をかけて問われているのだから、この方のように立ち向かっていく方が、真に自由人になった時、遥かにすがすがしさを感じることができるのではないだろうか。

公務員の本懐、人生の本懐、人としての本懐とは何なのか、頭にいる人達に投げかけたい。

あの公文書改ざんという命令が、どれだけの社会的有用性を持ったものかを考えた時、上に立つ単なる1個人の、権力に対する違法な私的配慮であり、悪の忖度でしかないことは明白ではないのか。

美しい国、日本はこれを正せないのか。

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