松浦藩について

2000年2月から2001年9月、仕事でかなり混乱していた時期だったが、PHP研究所の歴史街道という雑誌に、作家 安部譲二氏による「智謀の系譜(平戸松浦藩物語)」が連載された。

以前居住した場所の歴史について興味はあったが、忙しさにかまけ、20冊全編そろえたが、ほとんど目を通すことなく、保存するのみだった、

リタイヤ後、暇な時間ができたので、読んでみると驚きだった。歴代40数代約1000年にも及ぶ歴史があり、末裔の方が神奈川県におられるとのこと。

松浦藩の概略は、990年代丹波の国、大江山の酒呑童子という妖怪を退治したと言われる、5代渡辺綱が、主君源頼光に従って、肥前松浦郡にやってくる。

そして、その八代、久が、1069年松浦郡宇野御厨検校に任ぜられ、姓も松浦に変え、松浦久として松浦郡の領主となり、松浦一族の歴史が始まることとなった。

以降1000年に及ぶ歴史が、紡がれることになる。歴史の概略は以下のとおり

源平の争乱、元寇、足利氏と後醍醐天皇の争い 戦国争乱 キリシタンと鉄砲の伝来、豊臣秀吉の朝鮮征伐、豊臣と徳川の争い、明治維新、太平洋戦争のポツダム宣言受諾・敗戦などに松浦藩は翻弄される。

まず源平の争乱で、松浦一族は平家に就いてしまう。300艘の舟と3000人の兵を連れ、九州の武将でただ一つ松浦藩だけが、平家に味方した。壇ノ浦の合戦は、当初平家優勢で進んでいたが、味方の裏切りで形勢が逆転し、敗退、平戸に戻れたのは、74艘となっていたという。 そして、頼朝、義経の不仲問題などで、松浦が問題にされないことを察し、7年もの逼塞の後、1199年に鎌倉に出向き許されることになった。

次は元寇であった。鎌倉は「馬で海は渡れるか」と安心していた節があるが、1268元の皇帝フビライの使者が、大宰府を訪れるも、追い返してしまう。その後何度となく訪れた使者もことごとく切り捨てている。 松浦藩は高麗人から情報を得ていて、顔を立てればことは収まるものを、元の将士の凶暴さに火をつけてしまったことに気付き、やがて闘いになると、地理上の近さから感じ取った。

1274年(文永11年)元と高麗の軍勢が、900艘の大船、40000人で対馬、壱岐を征服し、松浦鷹島を経て、博多に押し寄せたが、松浦党を初めとする九州の軍勢の日本軍は、2日間の戦闘に耐え、元・高麗の軍を引き揚げさせた。

次の弘安の役までの間、高麗の状況を詳しく調べた松浦藩は、待つことなく、高麗の三別抄(サムビョルチョ)とともに元と戦うことを進言したりしている。松浦から高麗は、京・鎌倉よりはるかに近かったのだ。1281年(弘安4年)900隻の軍船、42000人の高麗・元の連合軍が対馬に攻め寄せた。さらに10万人、3500隻の江南軍が控えており、それまで14代続いた松浦藩の最後を覚悟した。 しかし弘安の役は、台風によって大部分の高麗・江南軍の軍船が沈み、14万人の内3万人だけが帰り着くという大敗で幕を下した。松浦藩は生き残った。

続く、足利氏・後醍醐天皇の争いでは、兄が天皇に、弟が足利に組みし、決戦で裏切りまで行って、足利氏を勝利に導いている。

戦国争乱では、他の地方と同様に、中央の政権が弱体化し、松浦藩でも内紛による戦乱が続いた。

そして、キリシタンと鉄砲の伝来では、まず、宗教の戦略を鋭く見抜き、飲み込まれることなく活用した。また石火矢と呼ばれた鉄砲を取り入れ、宗教や新しい武器を含めた交易により、したたかに国力を増強していった。 戦国末期、今川義元、武田信玄、上杉謙信、毛利元就などの戦国武将が天下取りに明け暮れる中、松浦藩は、織田信長の実力に気付き、西の果てから、天下の情勢を見定めていた。

次に訪れた、豊臣秀吉の朝鮮の役で、どうにか生き延びた松浦藩は、またしても徳川と豊臣の争いである関ヶ原の戦いに遭遇する。当初、地理上の関係で西軍に組みしていたが、長い松浦藩の歴史から「勝つ方に味方する」を実践していく。

堺沖に60隻の軍船3000人で待機していた松浦藩は、徳川に加勢することになった。しかし皮肉にも合戦が終了した2日後に関ヶ原にたどり着いてしまった。この時も何とか家康に許され、本領を安堵、事なきを得ている。

この時も自分の子供にそれぞれ東西に着くことを命じ、負けた方の子供を毒殺している。また、故意に自分の城の天守閣を燃やしたりもした。厳しい時代であった。

キリシタン問題でも、一時松浦藩は密かにキリスト教を信奉しているとの告訴があり、外様大名の取り潰しの格好の言いがかりを付けられてしまうが、これも、何とか釈明して終わることができた。こうして、江戸時代を外様大名としてなんとか生き延びた。

幕末の松浦藩は、薩長の討幕派につくか、幕府側につくかをあえて表明せず、大政奉還後、討幕派につくが、さらに幸運なことに、明治天皇が、藩主の又従兄弟にあたった。戊辰戦争では松浦藩は激戦地に赴くことはなく、明治維新後、平戸藩知事を務め、伯爵となった。

明治天皇陵

太平洋戦争敗戦でも、爵位は失ったが、咎められず、現在にいたっている。この雑誌によれば、先に述べたように第41代が神奈川県下に健在とある。

このような歴史があの松浦にあったのだ。

国宝 松浦屏風の一部

そして、新選組で有名な壬生寺に行くと、写真のような石碑があり、松浦藩と京都とのつながりを改めて知ることがあった。

石碑

壬生寺

トップページ

.

.

.

inserted by FC2 system