通学・通勤について

この場合、朝の通学・通勤時のことになる。

通学と通勤は、膨大な回数を毎日毎日繰り返し行う行為であるにもかかわらず、得てして、「痛学・痛勤」になっていることは、一種の常識だと思われる。

何故か

そのことは後にして、自分の通学・通勤はどうだったかと言うと、 先ず、人見知りが激しく途中退園した、福岡での幼稚園の通園から始める。古すぎて覚えてないはずなのに、なぜか朝、嫌で、だだをこねまわし、一人での帰り道で数人の年上に囲まれて殴られた記憶がある。徒歩通園 痛の始まり。

次に、長崎松浦の島の小学校の通学は、3年生までは優等生で、楽しい島をほぼ一周の徒歩通学だったが、4年生からのいじめで、痛学に急転回してしまう。

中学1年生は、船での通学。痛学がいじめからの開放などにより、楽しい楽しい通学へ。

2年生は佐賀で成績も良く、楽しい徒歩通学。

京都伏見の3年生は、徒歩通学。高校受験を控えていたのに、精神的なスランプで自分から招いた痛学になってしまう。

高校への通学は、高校に行けた安堵感から楽しい、徒歩と自転車通学で過ごせた。

予備校への通学は、全く無感覚の通学で記憶にあまりない。

夜間大学と仕事の通勤は、仕事の複雑な人間関係への違和感を、大学に行くという思いで相殺し、ある程度、大変だという思いもあったが、痛勤にはならず、通勤できた。

大学卒業後の仕事だけの通勤は、特に月曜日の朝の、「あの感覚」に終始悩まされた。正に痛勤だった。自分の通学・通勤は以上のとおり

それでは、なぜかに戻ると、今、週5日の仕事を続けていたら、わからなかったかもわらないが、最近自分の好きなアルバイトなどにかかわると、あの何とも重苦しい気分にならないことに気づいた。

だから、この通学・通勤について記述しようと思った次第だ。

通学・通勤の先が、ワクワク感や期待感を感じる場所・状況なら、同じことでも全く感じないなんとも悩ましいこの感覚。なんとか自分でコントロールすることはできないのか。

毎週毎週月曜日の朝、日本中いや世界中の多くの通学・通勤者が悩まされる、この不快感。この哲学的大問題を、これからどうしたものかじっくり考えていこう。今は解決策なしのお手上げ状態である。

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