鉄道について

知人に鉄道に詳しい人が何人かいる。

私にとっての鉄道は、幼い頃の福岡田川香春から小倉まで蒸気機関車で両親に連れられたことが最初の記憶である。

次が、長崎松浦、松浦本線(現在の松浦鉄道 MR)での蒸気機関車で伊万里や祖母達のいる武雄に行ったことか。

そして、京都に来てから、その武雄に当時の長崎・佐世保から京都への特急かもめで、11時間以上かけて往復していた。とにかく長い長い列車旅だった。

また、京都に引っ越して来た当日の夜乗った私鉄近鉄の記憶も鮮明だ。なぜなら、初めて国有鉄道以外の鉄道に乗ったからだ。

それから、岡山へ新幹線が、さらに博多までへと延伸して列車旅も一変する。新幹線の乗り心地は世界一だと、ヨーロッパのTGVに乗った時に思った。

私は鉄道に関する知識はそんなにないので、知人のうんちく(プロの知識)には驚くばかりであり、色々教えを乞うところである。

知人のお勧めの本は、「鉄道と刑法のはなし」NHK出版

鉄道に関わる法律に、軌道法や地方鉄道法などがあり、それぞれに出来た背景があるとのこと。

その中で、知人で面白い話を聞いた。京都の市電は軌道で、その最後の廃止の日、京都駅前での廃止セレモニーがあり、知人は同僚と、地下鉄工事の記録映画の仕事の関連で参加していた。 女優の檀ふみさんも出席、大いに盛り上がったが、最終車両が発車の時、群衆が列車と檀さんに殺到しかかり、かぶっていたヘルメットを叩かれながら、必死で整理したとのことだった。

京都から市電がなくなった日の出来事らしい。

この話には続きがあって、それはこの時の光景が、京都鉄道博物館の中の映像に出ているとのことで、実際に見に行くと、その知人らしき人物が映っていたということである。

さらに知人は、あの時の地下鉄工事の記録フィルムはどうなったのかという話を、しばしばする。

かなり込みいった話としては、地下鉄の出入り口の設置契約を誰がしたかということも話題に上がるが、その他に、近鉄との車両協定や相互直通運転の協定交渉も少なからず困難があったなど、確かにマニヤックな話題である。

また、京都市営地下鉄は、建設当初から身体障害者対策を意識していて、全世界の地下鉄のある都市に対して、それぞれの対策について調査を行い、その中、日本で初めて、4駅にエレベーターを設置したらしい。

その時、設計に当たっての設計基準がまだ一般的に決められていなかったので、当時の設計仕様がそのまま適用されたという話を聞いた。

これも聞いた話だが、京都市営地下鉄烏丸線京都駅のホームが弓なりになっているのは、建設当時先代の京都駅の塔が地下鉄駅の頭上に位置し、その塔の荷重を避けるために、線形が曲げられたということや、東本願寺前では、以前の路面電車の線形のように曲げるよう東本願寺が要望していたという話を聞いたことがある。

そして、その当時、英語のパンフレットがあったとかなかったとか。実はあったそうです

さらに、これも聞いた話だが、市営地下鉄の鞍馬口駅は、桃山高校の先輩達(O氏、K氏)が、土木や建築の工事を担当していたらしい、さぞうまく調整されて工事が進んだものと想像するところである。

烏丸線当初の北大路〜京都駅間では全駅に点字タイルや自動改札機が全国で最初に設置された。東西線のホームドアの設計と各駅の配色もK氏とのことらしい。

思い出すにつけ、色々出てきた。地下鉄烏丸線の工事中、烏丸丸太町を上がった烏丸通の地下には、「麒麟がくる」で放送された信長が造った二条城の石垣が出てきて、実際、地下の工事現場で見た人を知っている。

また、2021年5月29日は1981年開業の京都市営地下鉄40周年でもある。

これも聞いた話だが、大分古くなるが、阪急京都線の大宮〜河原町間の延伸工事の時で、知人だった市電の乗務員の方が、最終便で、四条通りに市電を運転して差し掛かると目の前の線路が、夜間工事で時間を間違えられて一時撤去されてしまい、目の前に線路がなくなっていたという話も聞いた

新聞・テレビでも騒がれた、京阪電車の三条〜七条間の地下化の工事中、鴨川が氾濫し、工事中のトンネルに水が流れ込み、「アユ」が泳いでいたという話。いろいろローカルな話題もある。

新幹線について、2011年2月3日に、広島福山で、現役最後の0系新幹線の雄姿を見に行ったが、それ以来見ることがなかった。それが突然、京都鉄道博物館の横を歩いていて再び対面することができた。幸運だった

そして、九州長崎の友人から写真が届いた。海を行く新幹線で、なんとも珍しい写真である。

鉄道の知識が豊富な知人の中には、5インチゲージというスケールの鉄道模型を所有されている方がいて、その模型は、かなり大型で、敷地にレールを敷き、乗ることができるらしい。

動力は石炭で、正に蒸気機関車である。

なかなか自宅にレールを敷き、乗ることができないので、専用の施設に持っていき、そこで動かしているということである。

その他、鉄道に関しては、ダイヤモンドクロスや軌間の幅、台車、電圧などありとあらゆる情報があるが、知人を通して、「物を運ぶだけでなく、人の夢を含め、人生を運ぶ」鉄道をさらに深く知りたいと思う次第である。

そして、なかなか経験できない鉄道に関してのことでは、引っ越した当初、家の横を通っていた近鉄京都線に、1979年新駅ができたことか。新しい駅が近くにできて、利便性が一気に上がった記憶がある

さらに、最近日本酒の利き酒で年に数回行く、七条京阪のサカタニで鉄道写真家の佐竹保雄氏の写真展があり、偶然にもその奥様と九州の鉄道の話をすることができた。幸運である。

また、最近書店で、「さよなら大垣夜行」なる雑誌が目に留まった。これは1968年以来長らく走り続けていた、東京と岐阜県大垣とを結ぶ夜行普通列車のことで、2020年3月29日をもって廃止されたものだが、この列車に40年近く前の1982年3月に一度だけ、青春18きっぷを使って、東京まで知人3人と旅行のために乗車したことを思い出した。

大垣を出発した最初はがらがらに空いていたが、小田原あたりから立ち客で、超満員になったことを覚えている。

20代の気楽な旅の、懐かし記憶である。

今までに乗った思い出の特急列車

思いでの列車では、福岡時代に、蒸気機関車に日常的に乗っていたが、やはり思い出深いのは、佐賀県の武雄温泉から京都までの特急「かもめ」だろう。1975年3月9日に廃止になるまで幾度となく九州を往復した列車だった。

九州鉄道博物館による

九州鉄道博物館による

翌日の1975年3月10日から新幹線が博多へ延伸した。0系、100系、300系、500系、そして700系新幹線と乗り継がれて、10数時間の列車旅が、2時間半あまりの移動へと短縮されることになった。新幹線の食堂車でカレーを食べた思い出もある。

新幹線開業後だったが、夜行寝台特急「あかつき」(2008年3月15日廃止)で、佐賀県の肥前山口から新大阪までの列車旅も経験した。

その他のJR線では、京都から青森までの夜行寝台特急「日本海」や、中央線の「しなの」「あずさ」、伯備線「やくも」、北陸線「雷鳥」、嵯峨野線(山陰線)「はしだて」、長崎・佐世保本線「リレーかもめ」「ハウステンボス」、日豊線「ソニック」「にちりん」など。

近畿日本鉄道では「しまかぜ」「ひのとり」の特急列車に乗車している。

余談

京都市の財政悪化の原因に地下鉄東西線の建設が上がっているが、その当時は大量輸送手段としての公共交通を必要として作られたものであったと思う。

大阪メトロ御堂筋線も建設当初は、採算など度外視し、100年先の大阪の都市機能として当時の先人たちが作ったものであると思う。

奈良の大仏の建立に経済的意味があったかは分からないが、1000年後の今、世界遺産としての価値は計り知れない。

東西線の建設に関わり、現職の企業トップの死にも遭遇するなど、紆余曲折はあったが、古都京都の都市基盤としての地下鉄の価値が、古都であり首都であった京都の長い歴史の中の、たかが数十年の時間で判断されることが、京都生まれではないが、長く住む者として、京都の歴史的価値においてどれほどの意味があるのだろうか。そして京都に物が存在するという意味はたかだかそれだけのものなのだろうか。

トップページ

.

.

.

inserted by FC2 system