我家の介護奮闘記

2005・10〜2007・1

我家の介護は、2005年秋、父が脳梗塞で倒れ、救急搬送された時から、その約10年間の幕が上がった。

職場の近くで、家内と父と3人で昼食を取って別れて、2時間後に電話があり、病院に運ばれ緊急手術となった。幸い命は取留めたが、右手足と嚥下機能麻痺の障害が残った。

2週間後退院。リハビリテーション専門病院に転院する。リハビリ専門だけあって、歩行機能は伝え歩き程度まで回復したが、嚥下機能については、流動性の食事から解放されることはなかった。

3か月後介護老人保健施設に入所。リハビリもしてもらえることにはなっていたが、結局車いす生活になってしまい回復することはなかった。

この時は、介護が初めてであったこともあって、一連の手続きなどにも混乱を来たし、洗濯を自宅で母に任せず、家内が担当した。面会のたびにその洗濯物を運ぶことになり頻度が増すことになった。

病院入院中、父がまだ少し歩ける状態の時、一度病院から自宅に帰らせたことがあった。トイレ、食事などたった一泊二日を母と我々で対応したが、家での介護が無理なことを思い知らされた。(父はその後一年この老健で過ごしたが、3度目の嚥下性肺炎で亡くなった。)

この時期忘れられない、こんなことがあった。仕事の会議中に父の病院から「転棟されました」と連絡があり、「え、転倒、骨折でもしましたか」「いや転棟です」しばらくのやり取りの中でようやく部屋が変わったことがわかりほっとしたが、最初から部屋が変わったと言ってくればいいのにと、その後その日一日仕事がまったく手につかなかった記憶がある

2006・5〜2010・1

そんなゴールデンウィークのある日、滋賀県のM叔母が住むO市の町内会長から急に電話がかかってきた。叔母が認知症で徘徊していて、警察に捜索されたりしているので、引き取ってもらいたいとの連絡だった。私が一人っ子なので、身内が私しかいなかったためだ。私の介護対象者の中ではM叔母は、一番若く全く介護など予想もしていないことだった。M叔母は叔父の死後一人暮らしをしていた。

家内と私は途方に暮れた。父と叔母を一緒に面倒を見ることなどできない。

数日後、我々は叔母の元を訪ねた。叔母は我々のことが分っているのかどうか定かでなかった。家を訪ねた介護施設の方で、市から叔母の見守りを依頼されていた人に会うことが出来、事情を聴くと、叔母が一年以上入浴しておらず、至急病院にかかる必要があることを知らされた。

その時家内が突然、お湯を沸かし、浴槽に湯を張って叔母を入浴させた。私は家内のこの行動に驚くとともに感謝した。それから3人で病院に向かったが、診療時間を過ぎていたので、その日の受診はできず、家内は帰宅し、私が叔母の家に泊まった。夜叔母が徘徊しないように監視するためだった。その夜は、叔母の家の中にカミソリとハサミがやたら目につき、一睡もできなかった。

翌日、家内と合流し、病院を受診した。

その後諸々の費用のため叔母の取引銀行で、お金をおろすことにしたが、叔母が字を書けなくなっていたので、お金を引き出すことが出来ず、銀行の方ともめていると、叔母が倒れ、救急車で再び病院に戻った。

夕方、O市の老人介護を所管する担当センターで、叔母を伴って関係者で相談することになった。色々調整を行ったが、どうしても我々で介護をするようなことに話が進んでいったので、そこで最後に私はこう叫んだ「M叔母を置いて帰ります。叔母を好きなようにしてください。私たちでは不可能です。」と。この、叔母を見捨てる思いでの調整により、何とか短期間の入所場所の確保にこぎつけた。

この短期入所を、数年間続けることになった。ここで問題になったのが費用の問題だった。叔母のお金に我々では手がつけられないし、かと言って我々が負担することもできない。そこで、知人の弁護士に成年後見人をお願いすることにした。

このような手続きを初めとする、父の介護とM叔母の介護が重なることになってしまった。

さらに、この他にもう一人のT叔母(ケアハウスに入所中)と母(実家で一人暮らし)にも老いが迫っていた。

何とかしないと身動きが取れなくなるとの思いから、まず、一人暮らしの母を説得し、T叔母と同じケアハウスに入所してもらった。

以後、4年余り、月1回家内と交代でO市の施設に、M叔母の介護認定や調整で通った。時には、すい臓がんの緊急手術の立ち会いに夜遅くまでO市の病院にいたりした。また、近くの堀に飛び込む寸前という自殺未遂まで起こしたりした。

最初の頃は、面談に行くと、寂しさもあるのか、喜んでくれていたが、後半は、面談に行っても隠れたり、逃げ回ったりされてしまった。

結局M叔母はすい臓がんで亡くなった。葬儀も我々がO市で行った。

父の介護と重なった、綱渡りの日々が続いた。

2006・1〜2013・10

O市の叔母が亡くなった10か月後、もう一人のT叔母が、2度目の大腿骨頚部骨折で救急搬送され、緊急手術を受けることになった。この叔母は、マンションに一人暮らしの時からケアハウスに入所後も含め、夜中に気分が悪いと電話をかけてきて我々家族を悩ませた。

溯れば、近くに引っ越してもらう前、夜中に年老いた父が電話で呼ばれ、自転車で30分くらい走って、叔母のアパートに行かされたりしていたことがあった

今回はリハビリがうまくいかず、最終的に寝たきりになってしまった。入院が長引く中、他の疾病も連続し、3年もの闘病の末、病院で亡くなった。その間は、病院との対応が続いた。

2013・1〜2018・5

物事は重なるもので、このT叔母の入院の終盤に、今度は母がケアハウス内で転倒し、別の病院に入院することになり、またしても、入院が重なることになった。 母は特別養護老人ホームのショートステイを長期利用し、その後正式入所していたが、がんを患い、2018年5月、我々家族に看取られながら、眠るように旅立った。

4人の高齢者のドミノ現象の介護が、私の50代に集中してしまった。約12年あまりである。一時は仕事を辞めないといけないのではと考えたこともあったが、家内との二人三脚での綱渡りだった。家内や娘には感謝しかない。

介護で思うこと

ところで、複数介護を経験した中で気が付いたことだが、状況を打開するためには、地域の介護施設(我々の場合は社会福祉法人・R福祉会)を含めケヤーマネージャーとどうお付き合いするかが、重要なポイントだと思われる。

介護認定の対応、病院の入退院の手続き、施設への入所・再入所の対応などでお世話になった。

また、先にも記したが、衣類の洗濯もやっかいな問題だ。最初は家内が自宅で行い、手分けして持って行っていたが、複数になると出来なくなる。その場合は、洗濯の委託サービスが有れば、利用すべきだと思う。

病院と介護施設の連絡がスムーズだと、更に便利である。

一人っ子であるにもかかわらず、両親等に悪いと思いつつ、子供の負担や不幸は望んでないと、勝手に解釈して、ひどいことをしたのかもわからないという思いを感じながら、許してと手を合わす今日この頃である。

介護は疲れる行為で、疲れてしまうと最悪憎しみにさえなりかねない。

幸い当時は、かなりのストレスを感じていたが、そこまでにはならずになんとか終わってしまった。終わってしまった今、あの時こうしておけば良かったなどと思うことがある。それは介護の先に、最も身近にいた人との別れがあるからだと思う。いかに介護の時に、精神の安定が図れ、一瞬一瞬誠意が込められるかが、後の後悔を回避できることに影響するように思うが。

はたして、それが出来たかどうか、両親達に「どうだったか」を聞くことが出来ない、答えのない問題だ。

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