日本史の中の伏見(日本を動かし、英雄達が歩いた風景)

今住んでいる伏見について、転居して来た中学3年の15才の当時は、学校の教室で授業を受けていると、日本酒のほのかな香りが漂う酒蔵の町だった。

四条河原町の繁華街に行くことを「京都に行く」と言っていたように思う。誰かにそう教わった訳ではないが、そう言っていた。中書島の北、油掛、寺田屋の近くの疎水縁に、伏見市の石碑が建っているが、そんなにしっかりした裏付けに基づいたものではなかったと思う。

この伏見という町が生まれた歴史は、1069年に橘俊綱が指月の丘に伏見山荘を営むなどの記録があり、月見の名勝地だったようだ。

歴史の中で、その輪郭がはっきりしたのは、1591年の豊臣秀吉による指月城の築城からではないか。戦国から天下統一がようやく成し遂げられようとしていた時、秀吉が桃山丘陵の南端の指月の丘に、宇治川から直接、船で乗り入れることが出来る城を築いた。

旧伏見城大手門

多くの歴史番組で取り上げられるこの時期、正に天下の中心として、伏見が出現したのである。

豊臣秀吉、前田利家、徳川家康、上杉景勝、毛利輝元、伊達政宗、長曾我部元親、加藤清正、黒田如水、島津義弘、石田光成、真田幸村、数えきれないほどの名立たる英雄たちが、この伏見に屋敷を持ち、闊歩していた。(伏見の地名に彼らの実存した証拠の地名が残っている。)

徳川家康は、宇治川対岸の地に、向島城を築き、居住していた。(一説によると、千姫はこの城で生まれた可能性がある。)

それまでは、のんびりとした農村であった伏見のこの地を、時の権力者が力に物を言わせ、丘陵全体を一気に大改造していった。(農民たちはたまったものではなかっただろう。)

御香宮神社の前に立て看板が立っているが、それによると、「黒田節」で有名な日本一の槍(日本号、ひのもとごう)を母里友信が福島正則から、大酒を飲んでもらい受けたという話が書いてある。福岡市立博物館に本物が展示してあるのを見たことがあるが、その話の現場がここ伏見である。

福岡市立博物館 日本号

伏見は、当時日本の中心として、政治の中心はもとより、宇治川という高速輸送手段を最大限活用した経済の中心にもなっていく。

今の観月橋は、豊後橋であり、流通の中心地として大いに栄えた。 秀吉は、天下を統一し、更に領土拡大に取りつかれ、大陸を目指し自ら弱体化していった。そして伏見城でその生涯を閉じた。

次に、大阪の豊臣と関東の徳川の地殻変動へと進んでいく。その断層が伏見ではなかったのか、関ヶ原の天下分け目の大戦の前哨戦として、伏見城籠城戦があった。徳川方鳥居元忠以下1800人と豊臣方宇喜多秀家以下40000人の戦いで、圧倒的に徳川方の不利な状況であったにもかかわらず、10日以上の激戦となった。

お城のある風景

関ヶ原で徳川の圧勝に終わったものの、大阪の豊臣、伏見の徳川とのにらみ合い状態となったが、家康は着々と天下に登りつめようとしていた。そして遂に、1603年家康は伏見城において、征夷大将軍の宣下を受けた。幕府の開幕である。

一般に江戸幕府と言われるが、当時の状況からして、大阪へ圧力をかける上で、伏見に家康がいることの重要性は大きく、その意味では、当時の政治状況からすると、伏見幕府の様相ではなかったのかと思うところである。

大阪冬・夏の陣で豊臣が滅び、徳川の世となる。伏見の役割は江戸に大阪にと移り、京都も所司代によって治められことになる。この時期の伏見の最後の出番としては、徳川三代目の家光将軍宣下が伏見城で行われたが、以後は、地方都市として存在することになり、歴史の表舞台から姿を消すこととなった。

一度歴史の舞台から消えた地が、再び表に出ることなど中々あることではないが、伏見は、250年後、倒幕の中心地として再び登場する。

この時の登場人物が、坂本龍馬であり、西郷隆盛、大久保利通 木戸孝允などの勤皇の獅子たちである。また、近藤勇を初めとした新選組も登場する。

またしても、明治維新の断層が動き始めた。幕府の始まりと終わりが奇しくも、この伏見で動いたのである。

指月の丘から、小椋池のあった向島方面を見ると、秀吉もこの風景を見たのだろうと思い、寺田屋で刀傷を見たりすると、明治維新に心を動かした坂本龍馬の想いに触れる気がする。

寺田屋

また伏見の中をどことなく歩いていると、ふいにその辺りから黒田官兵衛や西郷隆盛が顔を出すかもわからない。蜃気楼のような風景を見る思いである。

伏見稲荷界隈 リンク

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