時代のにおいと時の流れの速さ

時の流れは速く、止めることは出来ない。その時の流れにはそれぞれに区切りがあり、それを時代という。そして時代にその時々でにおいのようなものを感じるのは、私だけか。

幸いにも、我々の世代は、先の大戦、太平洋戦争などの戦争を体験することはなく、落ち着いた時代を生きてこられた。

1960〜1980年の間について、若さなどの自分の有り様によってもにおいも違ってくると思うが、あの頃は若くもあり、病気は別にして、時代そのものが何もなくても、力に満ち溢れ、活力がみなぎってように感じた。

その時の出来事として、東京オリンピック(1964)、大阪万博(1970)などがある。国や国民が同じ前に向かって進む、すがすがしさのようなにおいを感じて生きていたように思う。(一億総中流などと呼ばれた)

大学受験にしても、事前の全国共通試験などなく、高校の内申書はあったが、ほぼ誰でも一発勝負の東大や京大の受験は可能だった。

しかし、自分の歳と衰えのせいなのか、今の時代の出来事に何か重苦しさを感じてしまう。

一部の大金持ちの顕示的消費行為、ブラックのつく経済用語、過労死・共働き、シングル何某、放棄のつく言葉、思いもよらなかった言葉の数々に希望の見えない閉塞感によって、空気が澱み、生臭いにおいすら感じてしまう。

社会が幼稚化したなどとも言われているが、今の若者たちは、私達の若い時に感じた、あの時代と同じすがすがしいにおいを味わえているのだろうか。

心配な昨今である。

一日の重さ

人生の残り時間を考えたりすることがある。残りなどと考えても仕方がないという思いもある。

そんな時に、ふと、今日一日は60数年の時の流れの先端なのだ感じ、そう思うと一日を過ごすことがかけがえのないものであると思えた。

なぜなら、上手くいった時、ガタガタに落ち込んだ時など、幾度となく多くを経験してきた重みに気が付くからなのだろうか

コロナに思う

昨年のラグビーワールドカップの映像を久しぶりに見たが、日本中、いや世界中が熱狂し、人々が抱き合い、歓声をあげ、狂喜乱舞していた。

2019年末からの、新型コロナウイルスの猛威にさらされている。

一年後このような日本、世界を誰が予想していただろう。何か大いなるものが試練を与えているのだろうか。

その脅威は、全世界を覆い尽くしている。我々世代としては初めての世界的脅威である。においなどとは言っていられない状況に陥っている。

スタジアムはもとより町から人の姿が消え、沈黙の世界に入ってしまった。

何か時代が脱皮し始めているのではないか。先の大戦は4年弱の時間だったが、早急の終息を願うばかりだ。大きな時代の変革を、図らずも体験することになった。

出てこい英雄!

終息後の世界は様変わりするのは、必修だと思う。どんな世界なのだろうか。

我々の生きてきた時代を思う

我々の生きてきた時代は、先の大戦から10数年過ぎた時、そのスタートを切った。日本は高度成長期に入り、世界は東西冷戦へと進む。

その後、結局ソ連は崩壊し、日本は「japan as number one」と言われたように世界のトップに上り詰め、国民は「一億総中流」と言われるまでになった、そして、世界の主要都市の不動産を買い漁った。

しかし、そのバブルも弾け、その後「失われた○○年」と言われるような長期の経済不振に陥った。そして中国が政治経済の力を強め、一躍世界へと躍り出てきた。

そして今、世界のトップと言われる、アメリカ、中国、ロシアなどの首脳たちを、私から見れば、独裁者としか見えないような人物たちが占めている。

そんな時代を我々は生きてきている。

思うに、政治経済体制の違いはあるが、長期政権を標榜する彼らは、独裁者としか映らない。

中国が香港に圧力をかけることは自由への圧力とされ、自由主義のアメリカにおいて、過激な行動はあるとしても、人々のデモを力によって鎮圧しようとしていることは、批判されても、自由への圧力ではないとされる。

独裁体制での自由を制限された平和や、自由主義下での暴動などについて、そこに住む人々は、どう感じているのだろうか。

どこまでの自由が許され、国家がどこまで人々の生活などに入り込んでくるのが圧力なのか。

自由主義下での選挙は、制度が確立されているが、選挙において、特に「金銭の力」などで左右されるとすれば、それも一種の独裁ではないだろうか。

わが国でも、昨今の政治スキャンダルは一部の上層部で政治を動かす上での出来事ではないだろうか。

前の項目でも述べたが、出てこい英雄、世界を体制は別にして一つの「平和・平等・自由」という価値観でまとめられる英雄が。

<主な出来事等>

東京オリンピックがアジアで初めて開催 東京・大阪間新幹線開通

東西冷戦 核戦争一歩手前のキューバ危機 日米安保

名神高速道路開通 自動車 モータリゼイション

白黒テレビ 洗濯機 冷蔵庫

高度経済成長 石炭から石油へとエネルギー転換 大阪万博 

学生運動が全国を覆い、東大安田講堂闘争、あさま山荘事件

沖縄返還 公害顕著化環境庁設置 日米経済摩擦

北京で田中首相と周恩来首相が日中共同声明を前に握手

ドルと金の交換停止によるニクソンショック、

ニクソン訪中での米中共同声明、ベトナム戦争終結

物価大幅上昇のオイルショック世界を覆う

カラーテレビ ターンテーブル型電子レンジ 電卓 クーラー

ロッキード事件で田中元首相が逮捕 

パーソナルコンピューター フロッピーディスク 

ビデオデッキ ウオークマン ウォシュレット CDプレーヤー

ソビエト連邦崩壊 東西ドイツ統一

国民は「一億総中流」で世界の主要都市の不動産を買い漁る。

バブルが弾け、その後「失われた○○年」と言われる 経済低成長期

男女雇用機会均等法成立 日本労働組合総連合会発足 

自民党の55年体制が崩壊、細川内閣が成立。

CD USB インターネット 

阪神淡路大震災 地下鉄サリン事件

EU誕生 アメリカ同時多発テロ BSデジタル放送開始

パソコンが仕事のシステムの一部として職場に設置

携帯電話 デジタルカメラ プラズマディプレイ

サブプライムローンのリーマンショック

バラク・オバマがアメリカ大統領就任。中国の経済成長加速

東日本大震災 ブラック○○ ○○ハラスメント

コンピュターウイルス ウイルスバスター グローバリゼイション

スマートフォン PCHD→SSD CPUの演算速度・記憶容量の増大

イギリスのEU離脱 新型コロナの猛威 米中経済摩擦

トランプ大統領からバイデン大統領へ ワクチン敗戦国

ロシヤのウクライナ侵略

時間の流れの速さ

嬉しい時は早く時が過ぎる。苦しい時や何かを待つ時は遅くなる。1年の長さは、幼い時は膨大に長いが、年を取ると1年は短い。これは人生における相対的な1年の長さによる。

時の流れの速さに恐れを感じるが、感じないためには、じっとして何もせず時の過ぎる瞬間をぼーと眺めると良い。

時の流れに、うまく波乗りのように乗れればあれこれ考えることはない、有頂天だったり、苦しさばかりを感じる時、時の流れに翻弄される。

政治について

政治のあり様について、独裁が必ずしも悪いわけではない。平和や民衆のことにトップがきちんと対応していればそれでいいような気もする。

旧ユーゴスラビヤのチトー大統領の時は、多民族国家で平穏な状態だったが、集団になると混乱を来したことは一つの例だ。

私利私欲の独裁は、民衆が苦しむことになるので、権力を分散する必要が生じる。そこから三権の分立が生まれたのではないかと考える。弱いトップは集団でまとまれば良いのではないだろうか

このように単独と集団の政治構造の繰り返しが政治の歴史であるように思われる。良い独裁と集団統治の対局に悪の独裁と集団統治が存在する。これからの世界もこの繰り返しが続くと思われるが、

例えば、今の国会審議の様子見ていて、一部の限られた人達によって、彼らだけの世界で世の中が動かされているように思えてならない。

そう思うと、一部の政治家についても、自分たちの出世欲や権力欲を満たすためだけに働いているのではないかと思われることが多々ある。

本来政治家は、民衆の代表として選ばれた人達なのだから、国なり自治体を身体に例えれば、彼らは言わば頭なのだ。頭だけが厚化粧し飾り立てても、手足としての民衆が、破れた手袋や靴下、ズボンをはいていれば、身体全体としては滑稽であり、不気味させ感じるのが普通ではないのか、ここの所をしっかりわかって行動する政治家こそ、正義としての政治を理解した真の政治家と言えるではないのか。 

自由民主党について、批判するつもりはないし、昔の話をするのは年のせいかもわからない。

昔はハト派、タカ派と政策、知識・見識全てにわたり広範囲な議論をし、国政に当たっていて、緊張感に包まれながら政治を担っておられた。言い訳にしろ発言に迫力があり、これぞ政治家の感があった。

しかし、今はというと、「間違いはしない」ばかりに気が行って、言い訳なのかさっぱりわからない、迷言ばかりで、公務員に毛の生えた方が多すぎる。

そのためか、コロナ対応における政府も、地方の首長の進んだ判断の「真似」に終始している感は否めない。

名主たる自民党、いい加減に目を覚ます時ではないのか、大物長老議員の方の「一喝」を期待するところだが、これからの日本、本当にこれで大丈夫なのかと思ってしまう。

そして、国際社会全体を考える時、少なくとも、色々な多方面の知恵を駆使して、平和で豊かな国家・世界が生まれ、続くことを祈るばかりだ。

世界には知識人だらけはいらない、知恵者が必要なのだと思われる

そして、コロナ過の中、自民党内閣の支持率が著しく低下しているが、それは総理大臣からの発信を多くの国民が信じることが出来ないからなのだろうと思う。

その原因は、内閣のブレーンがコロナ禍を楽観視しすぎていること、次期総選挙や総裁選を見すぎてしまって、国民の声に耳をかさないこと、国民と政権とのコロナ禍に関するあまりに大きな意識のギャップがあること、そしてそのことに内閣が、気が付いていないのか、あるいは意図的にはぐらかしているのか、

実施している対策について、「間違ってない」ばかりに固守し、政権にとって余計だと思うような指摘・質問に全く応じず、一方通行の返事を繰り返すことによって、良い施策も国民が信じられない状況を生み出してしまっていることに本当に気付いていないのだろうか。

日々の感染者数の発表と記者会見の内容に落胆を覚える中、我々国民はどうこの状況をどう乗り越えていったら良いのだろうか。

そんな中、肝炎対策の関連で、厚生労働大臣協議を久しぶりに傍聴し、肝炎対策に精通する田村大臣を見ることがあったが、政治家の発信について誠意の有無を直接確認することなどなかなか経験できないが、今のコロナ禍の状況の中で、それこそ「ほのかな光」を見た気がした。かなりお疲れの様子だが、医療関係者の方々同様頑張っていただきたいと思った。

そして、2021年10月21日の衆議院議員の任期満了の総選挙とその後の政権はどうなっているのか、またコロナ禍はどうなっているのだろうか

100年に一度と言われる世界的な感染症のまん延に遭遇して、人災ではなく天災であってほしいと願いながら、政治について改めて考えさせられた。

戦争について

幸いにして、私たちの世代は戦争を体験することなく過ごすことができたが、戦争に遭遇した世代は、二度とあの悲惨な戦争を起こしてはならないと、多くの戦争犠牲者に誓って生きてこられたと思う。

しかし、時の流れの中で、戦争の暗黒面というか、勇ましさや悪の高揚感に知らず知らずに憧れを持ってしまってはいないか。

戦争を否定することが、卑怯者、臆病者という風潮が現れてはいないか、心配で仕方がない。

だだ、所詮、戦争などまったく経験のない、空威張りが、自分が決して最前線にはいくことがなく、後ろから「前進、前進」と叫んで悲惨な戦争を引き起こしてしまう、そんな本当に呆れた行動を引き起こさないことを、心から祈るばかりだ。

国家国民を守る真の意味を再確認してほしい。そして、外交という強力な武器を活用すべきではないか。

このように今も考えているが、ロシヤのウクライナ侵略を目の当たりにし、外交だけではまったく機能しないことも強烈に認識させられた。対抗する戦力がないと踏みにじられてします現実を見てしまった。武力と外交の両輪が必要なのだろう

報道について(2021年8月7日の違和感)

昨日、新型コロナ感染者が、日本で100万人を、東京でも5000人を超え、全国で毎日過去最高数値の感染が急増して、災害時を思わせる状況になっている。

朝、新聞に目を通し、TVの番組欄を見た。ほとんどの放送局でオリンピック放送ばかりで、コロナ関連の番組がない状態だった。

市井の中の何でもない人間がこんなことを書くのはどんなものかとは思ったが、違和感を覚えたので記すことにした。こんな日は今日だけなのだろうか。今、午前12時に有名なタレントの方をMCにしたコロナ関連の番組を見て少しほっとはしている。

それは、先ほどのオリンピック放送である。賛否両論で開催されたが、いざ始まると、放送局の番組はオリンピック一色のお祭り騒ぎで「自宅で静かに観戦」などの注意は一切なし。報道機関とは言え、視聴率やスポンサー、採算性の問題を抱えていることは承知はしている。

競技自体の放送や選手の奮闘には勇気付けられ、オリンピックの開催自体は良かったと思っているが、報道機関が、政権へオリンピック開催のコロナ感染拡大の関連や責任を追及しながら、放送自体で応援・解説という名目で、煽り立てているようにしか見えない状態に(そう感じるのは私だけなのだろうか)、報道自体も感染拡大に関わっていないのかと、政権を擁護するつもりはないが、強烈な違和感を持ってしまっている。

世の中が1つの方向に向かった時、すべての報道がそれ一色になってしまう今の状況に、「戦争やろう」の流れになってしまった時に果たして毅然として立ち向かう対応が、今の報道機関に取れるのだろうかと不安感を抱いてしまった。

今日の番組欄に、各社1つずつでもコロナ関連の番組が組まれていたらと、コロナ感染最大危機の今、冷静で客観的な見方ができる報道をと願わずにはいられなかった。

通り一篇で何人の感染者が出ましただけのニュースでオリンピック中にコロナの感染が止まってくれるとでも言うのであろうか。また、医療現場の最前線で命を懸けて、人命を救うために立ち向かっておられる医療関係者の方々のことを少しは考えているのだろうか。

オリンピックが終われば、一気にコロナ感染にシフトし、以前同様の批判が再開するのだろうが、オリンピック期間の報道について、失望を覚えた1日を過ごしている。

2022.7.9 安倍元総理の襲撃に思う

まず、安倍元総理のご冥福をお祈りします。

教科書で学んだ、何か、古い戦前の出来事に遭遇した感覚に見舞われた。515事件や226事件で政府の要人が襲われたそれらの事件である。

政治家の主義・主張・政策に対し、個人として違和感や嫌悪感を持ったとしても、それを批判し異を唱えることは当然許されるし、それが出来るのが真の民主主義だと思う。

しかし、それら主張などの違いを暴力によって、ねじ伏せることは、民主主義の完全な否定である。

このホームページで、スペイン風邪以来の人類が経験する、新型コロナによるパンデミックで、時代が脱皮し始めたのではないかと述べたが、脱皮ではなく過去へ引き戻されているように思えてきた。

民主主義の崩壊を表す生まれる前の時代の出来事が、「アメリカでの国会議事堂襲撃」「ロシヤのウクライナ侵略」そして今回の「安倍元首相の襲撃」などが、現実に起こっている。おぞましいと思う。

前にも記したが、幸いにしてこれまで生きてきた中で、パンデミックや大規模な戦争、暗殺などを日本では経験することはなかった。

これは、先の太平洋戦争で多くの軍人、民間人の痛ましい「死」の上に「日本の平和」が、戦争体験者の方々が築き、そしてそのことをしっかりと受け止めてきた、後に続く多くの国民によって築かれてきたからだと確信している。

しかし、今、日本を初め世界中で、多くの犠牲の上に築かれた平和の事実は忘れ去られ、個々の主義・主張を押しつけ、統制しようとする力が増しているように思えてならない。時代を引き戻すことではなく、進化させなければいけないと思う。

今こそ、しっかりと平和の意味を確認し、民主主義がさらに強化されることを願わずにはいられない思いである。

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