夜間大学

大学受験では、どうしたことか一浪したのに、失敗ばかりで、立命館大学と神戸大学の夜間部だけしか合格することが出来なかった。何かの巡りあわせか。

実際、立命館大学に入り、4年間夜の大学生活を経験したが、今はもうそんな学部はないのではないか。

当時の大学生活は、昼間は普通に仕事をこなし、夕方から4科目の授業があった。4年間は職場の理解をもらい、仕事の状態を考慮しながら、可能な限り大学に行かせてもらえた。感謝している。

B型肝炎の所でも書いたが、健康面でかなりの部分無理をして通学していたのは確かで、健康な夜間学生とは違っていたと思うが、その部分は横に置くことにして、どのような生活だったかを振り返ることにする。

先ず、大学に着くと、夕食を取った。午後9時過ぎまでの授業に備えてのことだ。夕方からこの間が大学生の時間になる。

大学には、地下に食堂があり、日常の生活用品も生協で売っていて学生生活に支障が出ないようになっていた。

残業で9時過ぎまで仕事をすると疲れるが、授業だと精神的には色々のことを忘れて、ようやく学生に戻れたように思う。

授業は、さすがに仕事の後であり、居眠りをする学生が多かった。

大学の場所は、京都御所の東側の広小路学舎で、近くに梨ノ木神社があり、最近建てられた、京都迎賓館は塀を隔てて、西側の御所の敷地内にある。

立命館大学では、夜間の授業も昼間の教授陣で行われたので、よく「夜間は安くて、同じ授業が受けられる」と学生同士で言ったものだった。

体育の授業もあったが、私は身体のこともあったので、見学だったが、その時、視覚障害の学生を授業に案内する役をやらせてもらった。その時盲人卓球を初めて見た

今も残る体育館

大学で勉強するのに、良い大学や良い環境など関係なく、やる気の問題だと、彼らを見ていると、自分の視野の狭さや意思の弱さを反省させられた。

外が真っ暗な、大教室での授業は何とも言えない雰囲気を漂わせていた。

授業が終わると、その当時走っていた京都市電に乗ったり、歩いたりして京阪三条駅まで戻っていた。後になるとほとんど歩き、喫茶店でよく授業やテストの話をし、いつの間にかそれが日課になっていった。

テストは当然、卒業のために必要であり、仕事を持った身には、如何に乗り越えるかが、頭を悩ませる問題だった。

身体の調子が少し改善した時期、同じく大学に来ていた高校の同窓生のA氏と再会し、少林寺拳法の有段者の彼に、御所の門の所で、夜二人だけで少林寺拳法を教えてもらった珍しい記憶がある

また、色々の仕事をしている人と知り合いになったが、今音信があるのはO氏のみだけになっている。

その中の1人に、K君がいた。鷹揚とした性格で、B型肝炎に苦しんでいた私にとって、彼との会話は、一種の安らぎとなっていた。

50年近くぶりの旧広小路跡地 現府立医科大学付属図書館

彼が私の家に遊びに来た時に言った、「君は学生のくせに、持ってる本が少ないな」の一言は、所詮夜間の大学しか行けなかったという思いで、くよくよしていた私にとって、忘れることのできない言葉である。

彼とは、卒業後、山に行ったりしたが、最後にあったのは四条河原町の近くのビヤホールで、ビールを飲みながら、色々話した。なぜかその日のことは鮮明に記憶している。

10年近く後、私が結婚を控えたある日、父からの電話で、ヒマラヤ、ナンガ・パルパットで彼が遭難したことを知らされた。新聞や山岳雑誌の記事になった。そのことが、更に彼との別れを鮮明にしている。

4回生になって、大学の場所が、衣笠へと変わった。金閣寺の傍である。

ここは、バスで行くしかなかった。学科の単位もほぼ取れていたので、仕事も忙しくなり、週に1〜2度くらいしか行かなくなった。家から、広小路に比べかなり遠くでもあった。

ゼミは3回生4回生の2年間だったので、週1回は親しい仲間と会うのが楽しみだった。

ある意味で、就職活動をしない自由な大学生活を、この夜間大学で謳歌出来たのかもしれない。 この文章を書きながら、夜の教室や歩いて帰った道のり、話に没頭した喫茶店などがぼんやりと思い出される。苦しくもありほろ苦い出来事がふつふつと蘇る。

小説 暗闇の中から

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