言い訳(社会に貢献するということ)

貢献という言葉の意味や、響きを考えるとつくづく自分からは遠いものであり、後ろめたさを少し感じてしまう。この文章事態が言い訳なのかもしれない。

人は、生まれながらに何かしら役割を持っているということを聞く。

そう考えて、自分を返り見て思うが、私は社会に対して何の貢献など無かったようだ。

それは実社会の仕事で、ほとんど誇れる実績がないこともあるのだが、思い出してみて確実にやったこととして覚えているのは、阪神淡路大震災が発生して、一週間後、友人らと3人で、水・食糧をもって支援できると思い出かけたことくらいか。お恥ずかしい限りだ。

電車で行ける所まで行き、後歩いて兵庫県芦屋市役所にたどり着いたが、余りの混乱状態に手伝うどころではなく、ようやく指定された小学校に物資を届けて終わりという結末だった。

社会に対する貢献とは何なのだろう。

基本的なこととしては、社会に迷惑をかけず、協力して生活していくこと、これは当たり前のことだ。その次に、実際に目に見える行動・行為なのだろう。こんなことしか書けることがない。

またしても、自分として社会に対して何の貢献もしていないということに行きつく。この文章はやはり言い訳でしかない。では何故書いたかというと、これからの将来のことである。

今はボランティア活動真っ盛りの時代となり、活動のマニュアルなどがしっかりして、参加することのハードルがかなり低くなり、簡単に支援できるようになっている。そういう意味から、身近でできることがあれば(災害などが起きないことを願うばかりだが)、必然的に参加したいと思う。

そして、最近の新型コロナウイルス問題で、改めて社会貢献について考えさせられた。

新型コロナウイルスと戦うことに関して、何もせずに家にこもることは、全く世の中に貢献できてないと消極的に考えがちになってしまうが、家に居ることによって感染しないということが、医療関係者を助け、ひいては、社会の役に立っているという積極的な考え方もあるのだということである。

また、こんな非常事態で孤軍奮闘されている医療関係者、また社会生活を維持するために、黙々と社会の基盤部分で活躍されている、小売り、輸送部門などの方々がおられることは、華々しく目に見える形の仕事ばかりが目立つ昨今だが、誇らしいことであり、本当に感謝に値する貢献なのだと気づかされる。

それらのことを踏まえ、今後何ができるかを考え、言い訳であることは確かだが、少しでも何か役に立ちたいとは思う日々である。

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