人生において、運や運命(以下運等とする)について考える時、当たり前だが、どうしても自分本位の運等の良し悪しに左右されてしまうことに気が付く。
運等について、可能な限り客観的に考えてみると、正規分布だと思う。
ごく一部のとんでもなく幸運な人と、とんでもなく不運な人とを挟んで、写真のような状況が社会・個々の人生ではないかと思う。
再度、利己的な考えに戻って、自分が正規分布のどのあたりかと思うと、例えば、真ん中から少し左の少し幸運として、その一点でも一瞬を表すものではないので、人生という長い時間をトータルで少し幸運とすると、そこにも幸運、不運の正規分布が現れる。
人生において、今は、幸運なのか、不運なのか。
人生について評価できるとすれば、それは自分自身でしかありえない。
人と比較してどうなのかなどは全く無意味だと思う。なぜなら生きているのは自分であって、他者を生きることはできない。そのこと自体が絶対なのだ。
これは他者を思いやれないということでは決してない。他者と比較することが意味のないことだと重ねて思うところである。
自分より他者が幸福に見えたり、恵まれているように感じることは、実際にはあると思う。
私自身、色々な場面で不運だと思うことに多く遭遇したし、なぜ私だけがとも思ってしまったが、この歳になると不運も人生の中の波紋のような気がしている。
人生、幸運ばかりで過ごせた人など一人もいないし、まったく波風にさらされない人生などあったとしても無味乾燥としたものではないだろうか。
人生の1つ1つの出来事が、その人にとってかけがえのないものだと思う。
有名な野球選手だったイチロウは、「今の実績は、その数倍の挫折の上に生まれたものだ」と努力以外にないことを強調している。努力の先に確固たる成功があることを知っていることも幸運なのかもわからない。
運について書かれた本によると、
運も確率で、幸運に恵まれるフォームを作れ
運は通算すると0で、制御すべき
相撲ではないが、8勝7敗で行けとか、
立つべき時は立って、自分の好きな生き方をする
他人の役に立つ生き方
健康・人格を損なわない
実力は毅然と、運は用心深くおずおずと
金持ちはばくちはしない
負けも勝もどこかに魅力が必要
自分にとって易しいことをやって勝ぐせをつけろ
などなど、運というか勝負の極意のようなことが書かれていた。
万事塞翁が馬で、その時々の波に任せて行くしか仕方がないのかもわからない。
ただしその波に受け身で翻弄され続けるのか、能動的に波を少しでも楽しめるかで、人生の面白味というか色合い・趣きが全く変わってくると思われる。
私はことごとく翻弄されてしまったように感じている。
物事を進める上で、計画を立てて進めると目標を達成しやすいと思う。それは人生の目標についても当てはまるものではないだろうか。
私の場合、九州の中学1年、2年までは、長崎、佐賀にいる前提でそこでの人生を漠然と考えていたように思う。
それが中学3年で、京都に来ると、目前の高校・大学受験に向かったので、とりあえずは、大学に入ってから何をするかをじっくり(そんな時間や家計の余裕があった訳でもないのに)考えようと思っていた。
それが、B型肝炎の発症で高校卒業1年後に就職と夜間大学に行くことになってしまった。目標も何もあったものではなかった。
それから数年すると、この環境でやれることを考え、くそまじめに1年ごとの達成項目を書き出したり、10年のスパンの計画を立てたりするようになった。
資格試験の合格などこれらの計画は多くが「計画倒れ」で、計画そのものが達成不可能な誇大妄想だったのだろうか。
失敗を繰り返しては、計画を変更しながら、それでも懲りずに今に至っている。
一方、医師や弁護士などになる思いを見事に達成できた人などがいる。努力の成果なのだろう。
また、親の後を継いでいくという生き方をする人もいる。このことで最近「親ガチャ」なる言葉も耳にした。親の存在が自分の人生を左右するという事なのだろうか。
いずれにしろ、人生でやりたいことは自分で決め、それを成し遂げた人、やり遂げることが出来なかった人に分かれることになる。多くの人は後者に属してしまうと思う。
私も多くの人と同様、後者だ。
このことは、先ほどのように、努力によるところが大きいし、最後までやり遂げる意思が問われるところだ。
人生について思う時、このような視点で見るのも、負け惜しみではなく、正常な感覚ではないのだろうか。
結果だけではなく、その過程や努力したことも重要だとは思うところだが、結果からすると私の人生そのものはやはり「計画倒れ」だったのかと思いを巡らした。
(長年残していた、多くの計画の紙ファイルを断捨離ではないが、すべて破棄した時に浮かんだ思い)
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