私の物欲&道具との出会い

物への執着

物に執着することは、ともすれば、見栄を張り金銭欲に囚われることにもなりかねないと思うが、反面、人生を豊かにするものでもあると思う。

しかし私の場合は、あまり物に拘ることがない。

例えば、小学生の時を振り返っても、当時夢中だったのは、プラモデルと漫画本だ。田舎暮らしの中で、細々と楽しんだように思うが、少しでも、残そうとはしていない。

最近、当時夢中になっていた漫画のおそ松くんが、「おそ松さん」でなって蘇っていることを思うと、今当時の本が残っていたらと思う次第である。

更に物の整理を始める前までは、夜間大学の時の友人に言われた「お前、大学生の割に本を持ってないな」の一言で、長年に亘って、じっくり読み込むこともなく貯め込んだ書籍があった。高価なものではなく、多読・乱読と言う気ままな思いの本だ。そのため、多くは期待外れのものが多かったが。

また、佐賀の中学2年の時、成績が上がったので、祖母にサイクリングスポーツ車の最新自転車を買ってもらい、京都まで持って来たり、マウンテンバイクの新車を買ったりした。

衣装や車といった一般的な物に、どうした訳か、まったく興味が湧かないのである。最低限必要なものは使うという程度の意識しかない。

今現在、自分の所有物で、これは高価という物が、よくよく考えても何もない。しかも新品は必要なく、使い古しでも、使えれば使う主義である。強いて今と言えば、ニューヨークのスタバックスで買ったタンブラーくらいしか思いつかない。

このような状況だが、私は豊である。

道具

そんな物との関わりの中で、生活をする上で、様々な道具との出会いがあった。

まず、筆記用具である、特にボールペン。

父に買ってもらったが、何度買ってもらっても、何度となく書けなくなった。この思い出が強く残っている。そのため、安いボールペンを何本も買ったり、替えの芯を何本も買い貯めたりしてしまう。

更に、思考の道具としての、パソコンは新しいものを買い続けている。

ワープロ、表計算ソフト、メールソフトなどがインソールされていて、考えたこと、思いついたことを書き留めたり出来て、なくてはならないものだ。

仕事をするうえで、デスクトップPC、例えばNEC、エプソン。1980年代から40年近く使ってきた。今はNECのウィンドーズ10のノートパソコン。

次は、椅子。仕事で実績がないイコール、ポストに着いてない。その為浅はかで惨めなのかもわからない話だが、家の今の椅子は張り込んだ。今その椅子に座り、ワープロ・エクセル、メールのOutlookなどと苦闘している。

システム手帳、スマートフォン、カバンなどは、なんだかんだ言っても、40年間仕事をしてきたので、その為の道具として何代も買い替えている。

その他、道具として、自転車、眼鏡、時計、靴、傘などなど。

そう言えば、雨の時のことを考えると、ゴム長靴の代わりに登山靴、以前のように皮製のように重たくなく、ゴアテックスで防水。雨合羽も登山用、更に、槍ヶ岳に登るために張り込んで、ストックを買ったが、これは老後の歩行補助用具である。

時と共に、時代と共に、個人で使ってきた道具も移ろいで行くものである。

そんなことを思っていると、今のコロナ騒ぎで自宅待機しているが、どうしても家の中の掃除・整理をしてしまった。すると、小学2年生の時、「小学館の小学○年生」という雑誌の、解答公募に応募し、当選してもらった天眼鏡が出てきた。

私の所有物の道具の中で、最も古いものだ。長崎の島からの付き合いと言いえる

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