草の戸と学窓の変遷・思い出の出来事

出生地 福岡県田川郡香春町

昭和30年代(1955〜)の香春岳

平成18年(2006)香春岳

五木寛之の「青春の門」の舞台の地、香春岳の麓の町に生れる。(香春岳を知る人が、今、身近に2人居られることに不思議と言うか、嬉しさを感じる)

小学校入学前まで農家の一軒家に在住する。

北九州小倉へ両親とよく行った。関門海峡の地下歩道。何故こんな何もないところを歩かされるのか、何回か行った記憶があるが、嫌だった。

小倉城にもよく行く その時はよく覚えていなかったが小倉祇園太鼓の音色。

盆踊りでよく流れた炭坑節 ある年の盆踊りで、近くで火事があり、民家が燃えている光景を見た気がする。

父はこの飲み方はしなかったが、コップ酒の角打ち。

夕方、よく散歩で父とボタ山に登ったことをおぼろげに覚えているが、平成18年に母と田川を旅したが、ボタ山を見ることはなかったように思う。

幼稚園の帰り道で、年長者に叩かれたことをきっかけに、人見知りが激しくなり、幼稚園を途中退園してしまう。

 

母に連れられて行った黒田胸の観音

母が庭の生け垣にバラを作りその前でよく写真を撮ってもらった

遠賀郡芦屋町唐津屋 父方の先祖が商売をしていた地 かなり以前に父と2人でお寺を訪ね、年老いた和尚と話をした記憶がある。

そして父がまだ存命中1人で訪れたが、お寺の位置などがまったくわからず、父も「もうお付き合いがないから」とそれっきりになってしまっている。

芦屋の町

芦屋町HP リンク

1961年、父が働く上清炭鉱で坑内事故が起こり71人の死者が出る大災害に遭遇した。

父は事故の1週間余り前に坑内事故で入院していて、退院の日に事故が起こった。

それ以降1週間くらい家に戻らず、徹夜で事故の対応をし、事故で入院しなかったら、この事故の日に坑内に入る予定だったことを、後によく聞かされた。

夜、父の上司の家で、運び出される多くのご遺体の映像を、集まった職員さんや母とテレビで見た覚えがある。

引っ越しの時、父とトラックに乗り、飯塚経由で長崎に向かった記憶がある。 6年間在住

上清炭鉱事故 リンク

香春町HP リンク

飛島  長崎県松浦市今福町飛島

ヤフー地図・写真から

昭和30年代飛島白っぱらから住んでいた東町を望む

当時親子3人で住んでいたの社宅

東町から北町への道

昭和30年代飛島の神社から

最近の今福港

今福中学校グラウンド側

空からの今福中学校

高台からの今福の町

ほぼ50年前と変わらない今福港の風景

閉山数年後の飛島

上田鉱業飛島炭鉱 リンク

福岡から引っ越しの日、今福から船に乗ってきて、小さい島の、階段状に埋め尽くす炭住の風景が目に焼き付いている。

住んでいる時、NHKの「ひょっこりひょうたん島」が放送されていたが、正にその島だった

飛島小学校入学(2005年3月31日廃校)

1、2年生は女性の担任の先生と馬が合うというか、優等生を演じられた。母の肝いり?で、西日本新聞社の絵画展で入賞したりした。この時にタナトフォビアを経験する。1964年東京オリンピックを見るも気がおかしく成るくらいの恐怖に悩まされる。

4年から中学1年まで「いじめ」を体験 4年生の若い女性の先生はこの騒ぎ・混乱に驚かれたと思い、以後ずっと心の中に、人生の忘れ物のように残ってしまった。

クラブ活動は小学校でソフトボール、今福中学でバレーボールをする。

伊万里や佐世保に行く。

中学1年の冬飛島炭鉱閉山 その間広い新築の社宅2回居住 今福中学1年まで7年間在住する。

長崎新聞より

松浦の思い出

飛島の近くの無人島、山島に大人に連れて行ってもらう 

学年は忘れたが、父と調川から今福の山に登る 

北町の西の海岸「白っぱら」という岩場で釣りをしたり、泳いだりした(当然遊泳禁止場所)

毎日通った北町の共同浴場 島の神社へ行く道のおもむきの良さが忘れられない 

父が何の病気かわからないが入院した浦之崎病院 

母とよく今福の役場や買い物に行ったりし、波止場のうどん屋で食べたうどんをよく覚えている。

6年生の時の骨折と蓄膿治療のため伊万里の病院にそれぞれ通う あこがれの伊万里のデパート玉屋

浦ノ崎の今はない海軍造船所跡

職員家族で船をチャーターし呼子へ刺身を食べに行く

閉山後、記念と称して仲間とボタ山に登る

今福の友人に連れられ梶谷城跡に登る

母の知人の舟で向かいの小飛島に海水浴に行き、西の小さい砂浜の絶景ビーチで楽しい時間を過ごした

中学は船での通学(台風などで荒れると、船は大揺れ。怖かったが船が欠航すると学校は休み。今想うと今福在住の生徒もやすみだったのかと思う)

今福中学はグラウンドが海に突き出ていた。木造校舎(転校して間もなく立て替えられ、給食も始まったとか。なんということか・・・涙)での授業

松浦市 リンク

武雄 佐賀県武雄市

 

JR武雄温泉駅

武雄温泉

武雄中学2年の1年間在住する。

佐賀県での生活 当初残務整理で父は一人、誰もいなくなった飛島に5月くらいまで居た

引っ越した最初、武雄温泉を利用し、後に借家で初めての内風呂を設置した

借家の近くの通り

塾に行き、今福にひき続き成績は上がった。(全学年中一桁の成績に)

1年間職業訓練を受けながら父は失業していた。

武雄中学はクラスが10組以上(たしか14組あったように思う)のマンモス校で給食を初めて経験する。人生で一度だけの給食

バスケットボールをする。この年の7月20日クラブ活動の時、駄菓子屋でアポロの月着陸をテレビで見る。

社会見学で雲仙・島原。この時まだ普賢岳は噴火していなかった

佐賀博・祐徳稲荷神社に行く。叔父・叔母の住む多良町にも母に連れられて行く。古い農家を借家 1年間

バスケットボールの練習試合でよく嬉野中に行き、帰りに「ところてん」を食べた。さらに佐賀市内の城東中に行ったが進学校で有名ではなかったか

9月以降喘息に悩まされるようになり。治療で伊万里郊外の桃川に土曜日早引けをして病院に通う

父の仕事が見つかれば、ずっとここ武雄にいると思っていた。(ところが京都へ)

九州最後の一日前アマチュア無線の試験で私の叔母と友人3人で熊本電波高校行

この時の友人は、4年後京都大学理学部に現役合格した。(合格発表は私が京大に行って確認した)

武雄市 リンク

伏見 京都市伏見区

宇治川河川敷からの伏見

武雄から10数時間の列車の1人旅で京都に夜着く。その時初めて私鉄近鉄に乗る。

着いたアパートの狭さに驚いた。

伏見中学3年

伏見中学転入。そこで驚かされたのが京都の高校入試が9科目だった。佐賀は5科目で、音楽、美術、保健体育、技術家庭は遊んでいた。

公立高校に行く必要に迫られていたので、試験には大いに悩まされることになった。

修学旅行は安保闘争の影響で、静岡までで東京には近づけなかった

再度、どうしたことか高校受験に支障をきたすほどの強度のタナトフォビアを経験する。秋に左手を骨折し、精神的に落ち着いた 

母がアルバイトを始たり、父は後に大手になる環境検査機器メーカーに就職し、大阪天満へ通った とにかく狭いアパートに7年半在住

京都府立桃山高校

2018年、創立100周年の京都洛南の名門高校

何とか本当に何とか公立高校に合格することができた

高校1年ではバスケットボール部に入ったがレベルの高さについていけず退部してしまう。

大学の受験勉強を始めるも、なかなか集中できず成績がさらに落ちたので、バレーボール部に再入部した。レベルは高かったが、私を受け入れてくれて、3年余り楽しめた。

高校2年の修学旅行は信州だった。バレーボールで坐骨神経痛になる 

成績は伸びず、受験勉強を気にしながら悶々とした日々を過ごす。

高校3年バレー部引退後大学受験勉強を本格化する 夏休み岡山県の学生村に友人と2人で受験勉強に集中するために行くも、喘息に悩まされる。

再度軽度のタナトフォビアも経験する。

アパートの狭さに嫌気がさし、冬休み高校の教室で同級生2人と自習する。さらに当時あった木造の府立図書館伏見分室で学習していた。

最近このホームページを創り始めて、色々思い出すようになったが、小学6年、中学3年、高校3年計12年間で6年生の一回だけ2階の教室で、後は全て1階の教室だった。それぞれの学校は4階建てだったりした。何の意味もないが。

立命館大・同志社大・大阪大・滋賀大受験 全て不合格 駿台予備校のみ合格

高校卒業後 卒業後1月余りでB型肝炎を発症し75日入院する

駿台予備校

肝炎の再発の不安感を抱えながら8月末から駿台予備校に行くようになったが、全く受験勉強どころではなく、ただ通っただけで、就職試験や夜間大学へ行くことを主に考えて通学した。

その時のことで2つ覚えていることがある。1つは、長文の英作文の時、講師に指名された女生徒が黒板に進み、スラスラと英文を書いていた。これを見て、この人はどこの大学を落ちたのだろうと思ってしまった。

もう1つは、2月の受験直前の追い込みの時、知合いの男子生徒と昼食後一緒に予備校の屋上に上ったが、その方が、汗を流しながら、顔をしかめているので「どうかしたと」問うと、十二指腸に穴が開いているらしく、「今、病院に行くと入院して受験ができなくなるので、痛いけれど我慢している」とのこと。正に命がけだと驚嘆するとともに、自分には絶対真似が出来ないと思った。3月末の予備校の受験結果で彼が東大文三に合格していることを知った。

これらのことを思い出すにつけ、すごい方々と一緒に勉強していたのだと今も脳裏に焼き付いている。

さらに、予備校では英語で約200人中最後から数人目という最低の成績も経験したり、肝炎に加え、強度の結膜炎になったりした。

滑り止めに仕事の採用試験も受験する

一年後再度、立命館大・同志社大・神戸大受験。立命館大(夜間)・神戸大(夜間)合格 

肝炎が再発し就職して働きながら立命館大に通学しガリガリに痩せる

就職後、父が家を購入する。結婚を機に近所に引っ越す。

伏見上空から

英会話教室に、独身時代と子育て後に行くも、ものにならず。

京都伏見・観光 リンク

京都・観光 リンク

写真がない記憶の中の忘れられない光景

いやでいやで仕方がなった福岡県田川の幼稚園の風景

母にあんパンを買ってもらった駄菓子屋の風景(場所不明)

小学校入学前の田川から行った大阪尼崎と京都北野旅行 大阪城天守閣から東京タワーを見る(多分通天閣では) 京都北野での喘息の発作で打った注射

虫歯が痛くて泣き、腎臓病でスイカばかりを食べた田川の家の中

引っ越しの時、山の上まで炭鉱住宅が立ち並ぶ長崎県松浦の飛島の風景

飛島の家の前からの海の風景 冬イルカの群れを見る

小学校でのソフトボールの練習

中学に通学した船、飛島丸の船内

今福中学で練習した体育館でのバレーボール風景

海に面したグラウンド横の、今福中学の木造校舎の教室

今福の港の前のうどん屋(建物は後日訪ねると平成まであった)

武雄で居住した、今はない農家

広々とした武雄中学のグラウンド

武雄中学の、今はない木造講堂にあった、バスケット部の部室と屋外のバスケットコート

佐賀県多良町にあった叔父の料理旅館

大分市鶴崎にあった叔母の家と鳩小屋

京都伏見の、今はない狭いアパート

初めて見た伏見中学の教室の石炭だるまストーブ

75日間の入院時の、病院の窓から見えた、目の前を走る近鉄電車

阪神大震災前日の神戸ポートアイランドで見た晴れ着姿の新成人達

阪神大震災一週間後の混乱した芦屋市役所内

思い出の道

人生を過ごした単調な日々の中で、毎日の往来があるが、多くの道を歩いて来た。その中で、おぼろげであったり、はっきり記憶に残る幾多の思い出の道がある。それを思い出すまま書き出してみた。

福岡田川時代の、おぼろげに思い出す、幼稚園への通学路

長崎松浦飛島での小学校への通学路(家から学校までの道のりを全て覚えている)

島の神社への見晴らしの良い道

今福の港から今福中学への道

今福小学校の前から江迎中央への上り坂の道

佐賀武雄での家から中学校への通学路

家から武雄温泉街への道

実際に今でも簡単に見ることが出来る京都の道の中で、

桃山高校への上り坂の道

伏見 桓武天皇陵から伏見城への道

夜間立命館大学への通学で通った京都御所の中の道

広小路立命館大学からの帰り道の三条京阪までの河原町通りの道

四条大宮からの斜めの後院通りの道

黄檗山万福寺から隠元橋を通り自宅までの道

阪急桂駅東側からの南への道 などなど。

人生の多くの思い出と共に多くの道を歩いてきたが、これからも新たに歩くであろう道に思いを馳せた。

人生における行動頻度・範囲について

人の行動頻度・範囲は、その年齢に伴い変化することは容易に想像することが出来る

私の場合は、福岡筑豊田川時代、長崎松浦今福の島での生活、佐賀武雄から伏見の中学時代、高校の日々、就職から現在まで、退職後くらいの区分でその行動頻度・範囲を検証することが出来ると思われる。

福岡筑豊田川時代  ほとんどおぼろげにしか覚えていないが、室内の一部、薔薇の生け垣のあった家の周り、裏の草地、幼稚園の中の一部と帰り道の一部、バス停の商店から胸ノ観音への道 小倉城の中。ほとんど自分一人の行動範囲か、両親に連れられてかの範囲だった。

長崎松浦今福の島での生活  家と家の周り、学校への道や島の中のそれぞれの町、島の山の中・海岸、両親との今福や祖母の住む佐賀武雄や親戚の佐賀多良・大分への旅行、ソフトボールの試合での今福・志佐行。遠足での平戸、修学旅行の博多、今福中学への船での通学など、個人・両親から学校の関係する同級生などとの行動へとその範囲が拡大していった。

佐賀武雄から伏見の中学時代 佐賀武雄では今福の時の延長で、雲仙への遠足など場所は違ったが、行動範囲の影響者は同じだった。唯一、武雄から京都への異動は、国鉄今のJRの在来線特急での10数時間余りの列車旅だった。正に未知の世界に一人で向かった体験だった。14才の一人旅。

伏見中学時代は、伏見とはいっても行動範囲の影響者は同じ学校関係者と両親。京都市内、宇治、修学旅行の静岡周辺、父との花園ラグビー場、大阪市内。

高校の日々  高校での日々の活動、修学旅行の信州、奈良遠足、クラブでの試合、受験勉強のための友人との岡山学生村行など、両親の影響が減少するに伴う友人との関係で行動範囲が決まってきた。

就職から退職まで  高校卒業後の入院や市内の予備校通学を経て、1年後に就職したが、夜間の立命館大学への通学で大学での活動もあり、学生としての行動をしつつ、仕事で広報を担当していたこともあり、京都市内から出張での大阪行などを経て、人事異動ごとの部署でそれぞれ活動範囲を広げ、さらに、登山を通しての活動、家族・友人などとの旅行なども加わり、現在の活動範囲へと広がっていった。

退職後  退職し、スイス・パリ、アメリカ・ニューヨーク・ワシントンへの海外旅行にいくことが出来た。さらにアルバイトや肝炎患者の支援活動などで、同等の活動範囲を保ってはいるが、頻度はかなり落ち、楽しい思索時間は別にしても、退屈を感じることが多くなってきていると思う。

高齢による健康の状態などで、これからさらに活動頻度・範囲が減っていき、幼児期のようなものにもどっていくのだろうか。いや興味や好奇心は老化しないのかもしれない。そうならまだまだ色々な所に行動範囲は広がるのかもわからない。年などとは言ってられない。

大まかに人生における行動頻度・範囲を俯瞰したが、日々の活動を繰り返しながら人生が流れ、そして少しずつ、あるいは劇的に同じ範囲であっても、場所などが変化していった、さてこれからは。

何はともあれ、健康に気をつけ、できるだけ楽しく生活していきたいものである。

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