人脈の様相

恩師

私には、数多くの恩師がいる。小学校、中学校、高校、大学多くの先生の教えを乞うた。今音信のあるのは、小学校の時のH先生とT先生だけである。T先生には、担任当時の「いじめ」の実態についての小説の原稿を送り、読んでもらった。50年ぶりの謎解きである。このお二人との音信があるのは、やはりいじめの経験のためか。

さらに、4年に1度の高校の同窓会でお会いするO先生(2年の時の担任)とは、音信の有無にかかわらず、先生がお元気で同窓会に参加される時は、楽しくお話している。

学生時代

武雄中学校の時の友人では、東京在住で、警視庁の幹部だったY氏だ。数年前、50年ぶりかで再会し、東京築地で会食した。

佐賀には、K氏もいる。当時、トランペットをやっていた、お洒落な男。仕事を始めた時は、佐賀や京都でも頻繁に会っていたが最近会っていない。

京都伏見中学校の時に、お世話になった,金管楽器のチューバ?をやっていて今も音楽を楽しむ音楽家、同じく長崎松浦の近く世知原からの転校生、それにクラス委員の、それぞれ3人のH氏。

中学・高校と成績優秀のS氏、彼とは、40数年後にして初めて酒を酌み交わした。相変わらずクールだった。そして、同じく中学・高校と一緒だったM氏の三人で昼食を共にし、当時の話に花を咲かせる機会を持てた。本当に楽しいひと時だった。継続あるのみだ

高等学校の友人は多い。中でも高校3年の冬休み、高校の教室を借りて(どうして借りられたのか、そしてなぜこの3人だったのかが謎であり、今では絶対借りることなど不可能な事)受験勉強をしたN氏(私が入院していた時、見舞いに来てくれ、入院を知る唯一の人物、元ラグビー部でアルピニスト、高校ラグビーを一緒に見に行っている。槍ヶ岳に2度一緒に登った。)と

Y氏(元中学の校長先生で大学の先生、歴史をテーマにした歩く会を運営。部外者の私も勝手に参加。さらに最近、彼が参加する写真展にも顔を出させてもらっている)。

それから卒業後加わったA氏(大学のメンネルコールで活躍、ニューヨークに2人で連れて行ってもらう) の3人は、卒業から今日まで毎年1〜2回会食している。この私を加えた4人の、学生当時の面影を思い出すのは至難の業である。

なぜなら、毎年少しずつお互いの身体の変化した経過を見ているためだ。数十年ぶりに会った時の激変が、経験できない4人なのである。

同窓会の元締めS氏、まさに同窓会の中心人物と言っていい。一年の時の同級生で、シベリア鉄道でヨーロッパに行こうと話したことを思い出す。業界の役員を務めているが、彼の事務所が我々の同窓会の拠点になっている

バレー部の友人とは年数回会食している。このY氏は教頭を務めた元教師で、今もママさんバレーを楽しんだり(コロナ過で断念)、喫茶店でだべったりしている。このHPの準備段階で事前に原稿を強引に渡して、読んでもらい、確認・校正のようなことをしてもらった。感謝している。また時々元弓道部のA氏とも会うことがある

更に、自治体の幹部だったA氏は、高校、夜間大学と一緒で、少林寺拳法の有段者だったので、大学の時、京都御所の中で、夜、皇宮警察ににらまれながら、二人だけで練習したことを思い出す。彼とは、中学時代、別の学校だったにもかかわらず、一度だけ会っていて、面白い関わりがあったことが後で分かった。

それは、ある市内統一の試験の解答を、まだ試験が終わってない彼に、私が渡し、彼の中学校で満点者が続出するという事件が起こったらしい。それがばれてしまい、生徒会長だった彼は、別の学校に転校させられた。言い換えれば追放された? このことを、夜間大学の時に、二人で確認し、大いに盛り上がったが、これは悲劇が喜劇か、はたまた武勇伝か

この件の証人としてY氏もいる。

また、現職の時愚痴をきいてもらった、労働組合のトップまで登りつめたM氏もいる。

3年のクラス会でお世話になるM氏、元サッカー部でギタリスト。

3年の同級生には元警察官のI氏・Y氏がいる。

また最近、B型肝炎訴訟の関係で、国会請願の院内集会、世界肝炎デー、厚生労働大臣協議などで東京に行く機会が増え、その時、銀座歌舞伎座の近くの、Yご夫妻の喫茶店を数回訪ねることが出来た。機会があればこれからも寄りたいと思う。そこは東京在住の同窓生のたまり場?。

その延長で、花の東京銀座のイタリアンレストランにおいて、東京の同窓生数人での会食を一緒に楽しむことになったりしている。感謝!!!

やはりこの歳になると、高校のクラスの同窓会や学年同窓会が楽しみになる。私の場合は、中学校を3回転校したため、長年の友人の多くが高校からになるためだ。

その同窓会の準備でS氏の所に、4年に1回幹事のようなことをする仲間が、各クラスから集まるが、その数か月間の準備もまた楽しい時間である。

何か高校当時の文化祭の準備でもしているようで、わいわいがやがや、もう65才以上の高校生の時間を共有している。

そして、同窓会では多くの語り合える友人が、この人がということなしに、いることに気づかされ、当時を思い出すことが出来ることに感謝したい。

特に、3年のクラスについては、ヤンチャながら憎めない人、音楽に打ち込む人、スター性豊かな人、一見目立たないがキラリ光を放つ人など40数人一人一人が、大切な存在である。

立命館(夜間)大学の友人O氏、40数年ぶりに再会 同じ同窓生K氏のヒマラヤ遭難を知らずにいた。年賀状だけの音信だった。

ここまでは多くが男性。先ほどの元弓道部の方をはじめ、少ない女性の友人の中でも、高校卒業後しばしば会って話をしたU氏や3年のクラス会でお世話になっているF氏。毎年1回人間ドックでお世話になるN氏、英会話のNOVAで一緒で学年同窓会の準備や大手筋でたまに会うH氏、更に、40数年ぶりに連絡が取れた長崎の中学の時のK氏、嬉しいことである。男性の友人ばかりの私にとって、貴重な友人である。

元の職場

元の職場の知人は、Y氏だ。先輩であるY氏とは今も月に1回昼食を共にし、色々話をしている。リタイヤ後の情報交換の場だ。I氏もまた頻繁に会っている、会食付きで。I氏も歴史をテーマにした歩く会の代表をしている。 この2人にT氏とK氏を加えた5人で年数回会食している。

このT氏のおかげでこのHPをアップすることができた。感謝しかない。

更に、嬉しくもあり幸運でもあるが、元上司や先輩(M,Y,M,K,S,Nの各氏)、現職中に転職したM弁護士など8人のグルメの会にも、参加している。近年、台湾と四国へ美食旅行に行ったりもしている。

また、年下であるが、トップまで上り詰めたS氏には、辞める辞めないと興奮していた時、頭を冷やすように諭されたし、そういえば、御在所岳籐内壁でのロッククライミングで滑落した時にも下で確保してもらったのもS氏だったように思う。

さらに、別のK氏からメールをもらった。私ごときにリタイア後連絡をいただくとは驚くとともに感謝している。彼もトップまで上り詰めている。多くの関わりを持った人物であるが、晩年体調を壊していた。今は回復したとのこと。コーヒーや一杯やりながら話をしたいものだ。

どうも子供じみた行動に走りがちな私を、温かく取り巻いてくれている人に囲まれていることに感謝したい。

また、現場時代にお世話になり、現場を離れる時に二人だけで飲んで別れた、組合幹部だったF氏と20年ぶりに再会し、当時の苦労話を肴にまた二人だけで歓談することができた。感謝である

このように、細々ではあるが、元の職場の方と連絡を取り、昔話に花を咲かせることも出来ている。ありがたいことである

これらの人脈を見て気づくことは、学校の先生や警察官、自治体職員など公務員が多い。今なら花形の職種だが、40年以上前からの付き合いを考えると、偏っていて、当時から安定志向だったのか、その辺りは定かではない。

B型肝炎関係

また、B型肝炎訴訟を通して、担当のK弁護士をはじめ、

肝炎の情報を提供する会報の発行や医療講演会でお世話になる京都の患者会の先輩世話人の方々、顧問の医師の先生

衆議院・参議院議員に対する国会要請行動・院内集会などでお世話になる日本肝臓病患者団体協議会の先輩幹事諸氏、

患者講義や厚生労働大臣協議などでお世話になるB型肝炎訴訟大阪原告・弁護団の多くの先輩役員・原告の方、弁護士の皆さんなど、多くの出会いが続いている。本当に有難い体験である。

この肝炎関係の出会いで、一人悩み苦しんでいた状況から解放されたことを、この場を借りてお礼申し上げたい。本当に感謝します。

さらに、シルバー人材センターの中で、現職時代にお世話になった2人のM氏やY氏との再会や、ピアノを弾く強面の上司、ペアで仕事のお世話になる方々、元の職場で一緒に仕事をしたF氏など、徐々に新たな出会いが生まれている。

これからの人生にも、人との出会いはある。それがどんな付き合いになるかは未知数だ。これから残った人生を左右する出会いなのかがわからない。

今までに構築された人との関係で、今後の人生を進むことは想像できても、新たな出会いが、どう影響するのか、不思議であり、楽しくもある。

人脈に関係する通信手段について

新型コロナの中で、話はそれるし、別の項目でも記すと思うが、ここでも少し。

人と人とのつながりで、その通信手段についても大切なことであると思う。

先ず手紙である。昔はこれしかなかった。お互いの情報を伝える唯一の手段だった。

手紙のやり取りでは、中学校の転校に伴って、短期間であってもまた長期間でも多くの友人と文通という形を体験した。その後、年賀状へ移行していくことになった。

それから電話になるが、我が家に電話が設置されるのはかなり遅くなってからだった。なぜなのかは、引っ越しのためなのかなど定かではない。

昔は、個人情報の管理もゆるく、卒業アルバムの後ろに、住所録が添付されていたが、その住所録で、中学校、高校とも私の欄には電話番号の記載が無かった。

この時期は、公衆電話を頻繁に活用したり、お隣さんの電話を借りたりしていた。思い出すのは当時の友人へ京都大学の合格結果を隣の電話を借りて、九州へ連絡したことだ。

我が家に電話機が付いたのは、私の就職に伴ってのことで、その後父が家を購入して、自分の部屋が確保できると、親子電話の設置という形で自分の個人電話が確保できた。

長くこの時代が我が家以外の社会一般でも続いていった。

その後いつの頃かはっきりしないが、仕事の関係で、トランシーバーのように大きなNTTの携帯電話を使う機会があった。

そして、ポケットベルを経て、いよいよさらに小型の携帯電話の時代に入っていった。

携帯電話は便利で良かったが、仕事で使うようになり、さらに管理職になると、四六時中鳴り始め、監視されているような感覚を味わった。

通信手段として、インターネットがコンピューターの世界に普及し、これを携帯電話にも活用され、メール機能が付き、ガラパゴス携帯電話から、さらにスマートフォンいわゆるスマホへと移行していくことになる。

さらに、多くのアプリケーションや買い物の決済機能が付加され、現在の通信手段へと発展してきた。

今は、ラインやフェイスブック、ツイッタ―なども色々増えている。

この間、なにより情報交換速度が、各段増し、そしてその情報量や質も格段に向上した。距離に関係なく、情報を共有できる。

最近、小学校4年の時の、T先生とCメールが出来たが、心が少しウキウキしている。また多くの私を取り巻く人々と多くの通信手段を用いてつながりを持てていることを改めて知ることが出来ると思った。

このような人脈の状況の中で、今回の新型コロナの襲来である。一つ一つの関係をどのように保つことができるのか。直接面談することがほとんどでいなくなってしまった。

そこで有効なのが、前述のとおり、ラインやメールである。距離に関係なく、直接接することなく、同時に情報を交換することができる。

思うに、直接会って話せることがいかに貴重なことであったかを知ることができたし、さらには、面談できないから、ラインやメールでのやり取りが一層重みを増したのではないかとさえ思われる。

また、今まで東京や大阪であった会議や集会も、当初は休止だったが今はZOOMというアプリを使って、家の中からリモートで参加している。

私は参加するだけだが、会議などをセットする方の能力、技術力には感服する。

仕事の仕方さえも大きく変わるのではないかと驚きを感じている。

コロナ禍を通して、1つ1つの人間関係を含め、多くのネットワークが大きく変わり、より一層深められているのではないだろうか。

これは通信手段の発展がもたらしている大きな恩恵ではないかと思う。

コロナ過の一日も早い克服を願う中で、色々のことを顧みる良い時間とも言えなくもないとも思う次第だ。

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