義父の生涯

義父は、よく中国のことを話す。そして、最初、北京に連れて行ってもらい、次は、西安と上海に二人で旅した。

義父から色々中国のことを聞いたが、最近びっくりしたことがあった。それは、義父が昭和24年に中国から引き揚げる時の佐世保までの航海の時、すぐそばに満州国ラストエンペラー愛新覚羅溥儀の弟の愛新覚羅溥傑とその妻嵯峨浩がいたという話だ。

それがNHKの日野正平さんの「こころ旅」で山口県下関市の中山神社を訪れていたが、その神社の愛新覚羅社という神社があり、愛新覚羅溥傑とその妻嵯峨浩が祭られているとのことで、義父は時代の生き証人だったのだと思った。

北京 紫禁城

西安 兵馬俑坑

中国語を流暢に話す。何より中国をよく知っている。 このことのベースというか、土台が、手紙に書かれた義父の生涯の体験によるものであることが分かる。 今の日本の元は、両親・義父たちの過酷な人生の上に成り立っていることを、決して忘れてはならない。 平和と繁栄を、守り続けることが次の世代の果たすべき役割であり、絶対命題である。手紙を通しての義父からの思い

【 手紙 】

若葉の美しい候と成って来ました。御変わりなく御出勤のことと思っています。

私も月1回通院しながら、何とか生きています。 90歳を超えた今想うのは、国家の為とは申せ、若くして散華した(20歳前後)特攻の戦士に申し訳ない気がします。

顧みれば、私も昭和16年3月28日小学校卒業、満州開拓団へ指命されましたが、すでに、実兄3名は中国戦地に、1名戦死していましたので、中国行きに決めました。

4月2日佐伯を後に門司より鴨緑丸7500屯出港。大連入港、北京へ到着しました。広大な城壁、物資の多いのにはビックリしました。入学した中鉄学院の東側は城壁で日本人105名、中国人400名全寮生です。

トンツー トンツーと電信符号を記憶するのに昼夜なく毎週土曜日にテストがあります。電文に8字誤受信すると不適性として退学、内地送還と云うので必死でした。

1年後53名の卒業生となりました。私も無線・有線の通信士として華北交通徐州電信所配属と成り(5名)赴任。止宿は土壁、無数の弾痕も生々しく、聞こえる銃声、小皿に種油、灯芯わずかな明りに、此処は戦地だと実感し一睡もできませんでした。

入寮した青年学校は4年制で200名前後だったと思います。毎日起床6時皇居〇拝、社歌、青年歌を歌って、剣道、銃剣術、朝食出勤です。 徐州は井戸水は出ません。大八車に木箱を乗せて2km南の旧黄河の水を交替で運んで来ます。食堂第一に風呂は土曜日のみですが、当番は駅班、機関区班、電信所班と職場毎ですが、戦地とて規定通りには行けません。水が無く洗面せず出勤することも。洗濯もできませんが、欲しがりません(勝つまでは)を合言葉に不満は出ません。

昭和20年に入って昼は米軍機、夜は地雷で戦況悪化、少し前途不安を感じました。4月1日北京航空隊に入隊。天津航空隊で出撃する特攻隊を多く見送りました。五機編隊で機影が消えても尚、千切る程帽子を振って見送った光景がハッキリ思い出されます。申し訳なく侘しい気になります。

終戦により現地除隊、1人徐州へ(800km)。遠近の銃声を気にしながら、鉄路に沿って南下。鉄道は不動です。北上する日本人と情況を交換しながら、無人の駅舎で仮眠し、臨城駅にて旧知の駅長にバッタリ、ビックリ。国共内戦の激化で通行止となりました。

私は帰省者が置き去りにした衣類を物々交換して生活。21年3月、機を見て脱出、徐州へ帰着しました。期待大きく飛び込んだ鉄路局には、日本人は1人もいません。20年末までに全員帰日したと聞く。ビックリ、ガッカリ。持っていた朕銀券は紙屑同然。旧知の中国人も迷惑を考えて訪問も出来ず、前途不安、どうしよう。

生きる為に手掛けたのは、当時の中国、戸別にトイレがありません。毎朝玄関に出しますそれを拾って農家へ肥料として売り、又一輪車で水売りなどして何とか生きました。

国民党通信兵に採用され毎日満腹、生活安定、大満足な日々でありました。注意したのは、日本人と判らぬよう洗面食事作法に気を使いました。

入隊して眼にしたことは、兵器と共に相当数の軍馬、軍用犬が中国側へ接収されました。耳慣れぬ中国語の兵に叩かれ、前足高く啼いている様を見る度に腹立たしく不快な思いがしました。

宿県に移動して国共内戦が激化、共産軍にも生きる為に多数の日本兵が留用され、同士撃ちの悲劇も生じ、隊内の空気も怪しくなって12月末、戦犯となって上海収容所へ入りました。

昭和22年1月3日米軍の上陸用船にて佐世保入港。6年ぶりにヤット帰国できました。即帰郷と思いしや、一夜明けてみると建物は鉄条網に囲まれ、米兵と日本人警官に看視されており、ビックリ。聞けば戦犯者は全員東京より指示待ちと言う、少し不安に成りました。

全員集合、戦地名と氏名を呼ばれて別室へ。南方班は全員東京に送られました。彼等も現地裁判にて無罪となり帰国できたと船内では大喜びしていたのに気の毒に心苦しく敗戦を痛感しました。

私は、無事帰郷時、係官より君達も全員戦犯者だから何時東京に呼び出されても即応出来るようそれぞれ資料を整備しておくよう言われましたので、在支の階級章、胸章、証明書類は大切に保管し今と成っては私の生き証人です。

昭和26年物価統制令廃止を待って上京、島津製作所へ入社しました。28歳洛陽工業高校夜間へ入学、4年間努力しました。国家資格も5種類習得し心豊かな会社生活を送りました。

60歳定年退職後、訪中を志し、夜間北京放送の現在の中国語を学び、徐州へ45年ぶり戦後世話に成った中国人を探し当て、再会。以後、訪中25回を数えます。

各地に友人も多く交流、楽しい老後生活でしたが、現在日中不仲、文通はお互い迷惑と考えてせず、電話で安否のみ、少し侘しいです。 時の流れ、没法子

手が震えながら何とか書き完えました。方法なし仕方なし 不明な字、文もあると思いますがお赦し下さい。 御多幸をお祈りします。

2018年6月10日     I C

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