スポーツを楽しむ時間

B型肝炎の発病で、精神的・肉体的に大きなダメージを受けたが、身体を動かすことは、過労にならない限り、健康に良いと思い、ある時期からスポーツを再開した。

スポーツはするのも見るのも大好きである。

ソフトボール・軟式野球・バスケットボール

ソフトボールは、小学生時代、いじめ状態で、強制の名の元に楽しさを味わうことがないまま、厳しい練習をしていたので、試合には勝てるスポーツだった。後年、伏見の居住地の学区の町内会の大会に参加し、長年に亘り、連勝を続け大いに楽しむことができた。

軟式野球は、職場の友人I氏(硬式野球経験者)の勧めで始めたが、最初はボールの速さになれることが出来ず、なかなか打つこともままならなかった。練習を続けるとようやく打て、そして大会に出てそれなりの成績を出せるようになった。

職場のチームは野球経験者がほとんどいない素人集団で、I氏がみんなに教えていて、体を動かすには最高だったと思う。

その中での思い出では、後述する「野球の試合」の試合はあるが、職場にあった3チームが合同チームを作り、職域の大きな大会に三軍Cチームとして参加し、一軍チームが準決勝で負けた相手に、決勝戦で戦い、勝って優勝してしまった。

この時の勝因は、甲子園経験のある投手と、我々のチームのK投手の2本立てが功を奏した。打つ方もみんなよく打った。

一軍には単独ではもちろん、合同でも勝てるはずがなかったが、この大会で我々が勝ってしまった。

また、京都、大阪、神戸の職域の大会にも一軍の応援にI氏やK氏と共に参加させてもらった。これは我々のチームの戦力を一軍が必要としたのだと思う

大阪の強さばかりが記憶に残っている。レベルが違った。この大会では一度、今のオリックスの、神戸のホームグラウンドで試合をした思い出もある。

野球での心残りは、スポーツジムの水泳でキックターンができなかったように、ベースでのスライディングがとうとうできないままになったことである。

いずれにしろ、野球ができたことに感謝である。

参考成績

町内会ソフトボール大会20回出場 春・秋13回優勝など

軟式野球 約20年間で、職域大会優勝1回 日産グリーンカップ予選出場

バスケットボールは、佐賀武雄中学で始める。学業の成績が上がり、新しいスポーツに熱中した。夏のクラブの練習の時、アポロが月に着陸するのを駄菓子屋のTVで見た。 それから2年後 京都の桃山高校で再び入部したが、レベルの違いと練習の厳しさに着いて行けず退部した。

バレーボール

バレーボールは一番長くプレイしているスポーツだ。長崎今福中学1年で初めて経験した。練習の記憶はあるが、試合の思い出はない。

桃山高校1年の3学期から再び始めた。先輩が少なかったし、ここでもレベルの違いを思い知ったが、チームメートが優しかったので、受け入れてもらい続けられた。

その時のチームメートは、中学では京都市内での強豪校の淀中や藤森中の出身者たちがいたが、人数が少なく直ぐに公式戦に出してもらうこともでき、途中の坐骨神経痛の期間を除き、高校で2年間プレイした。

その時の思い出では、

洛東高校での9人制の京都府高校総体に参加したが、私は、バレーボールの戦略がまったく理解できてなくて、寄せ集めのチームだったが、チームメートに教えてもらい、大いに楽しむことができた。

この大会にはチームメートの先輩達が、強豪校から出場していて「お前らの先輩」を大いにアピールしていた光景を思い出す。私には先輩がいなかった。

我々のその当時の強豪校と言えば、洛南、東山、洛陽工業、紫野などだったと思う。

京都学園(以前の京都商業)での試合では、ブロックが決まったりして、強豪の紫野と接戦を演じ、もう一歩で勝てるところだった。

京都府下では、ベスト8にはなったような根拠のない優越感を持っているのは私だけか。なぜなら、チームには中学のバレーボールエリートがいたからだ。

最後の引退試合は3年春の大会で、会場が乙訓高校、東山高校と当たった。攻撃ではこちらが上回っていたように思うが、とにかく、フェイントをやたら落とされて負けた記憶が残っている。

卒業後OBで社会人リーグに加盟して試合に参加したが、肝炎のため、個人ではマネージャーを担当した。

その後数年間はバレーボールから離れていたが、たまたま町内会の試合に誘われ、参加し優勝すると(町内会の大会は13回出場し、3回優勝などした)、学区の代表として区の大会に出た。

大会に出た時は幸運だと思った。病気の時、またバレーボールができるなどとは想像すらできなかったからだ。

大会は最初に30数チームで予選をし、2勝したチームが残り、決勝トーナメントに進出することができた。

最初の大会は、あっさり予選は突破したが、決勝トーナメント初戦で負けベスト16止まり。

第一回目の優勝にはかなり時間がかかった。高校で国体に出た選手が一緒に出て、大活躍しあっという間に優勝してしまった。

第二回目については、込み入っていて、それは第一回目の優勝の前夜、高校でセッターをしていた生徒が女子チームに入り、練習試合をしたが、まったく勝てなかった。それが優勝したので、後日彼に会うと「ウソでしょう、あんなに弱かったのに」と呆れられた。

その彼が、その後、チームに合流し大会に出るようになったが、準優勝や3位には何度もなるものの中々優勝できなかったが、彼が中年に差し掛かる頃、とうとう優勝することができた。

今でもたまに会うとこの話になってしまう。本当に楽しい思い出である。

それから50歳過ぎまで、21回、区のバレーボール大会に関わり、優勝2回、準優勝2回、3位1回の成績を残すことができた。(写真のメダル)

頂点まで勝ち進むことは、レベルの低さを度外視して、数回経験しているが、ここで終わると感じながらも、紙一重で切り抜けて行って勝ち残ると、必然だったような感覚を覚えた。勝つとはそういう感覚を伴うもので、連勝はこれの持続だと感じた。

現在は月1回、元弓道部のA氏に誘われママさんバレーボールの練習を、高校時代のクラブの友人Y氏と共に楽しんでいる。(コロナ過の中、肘の故障で断念 31回)

さらにさらに、ほぼ毎日行っていたスポーツジムを月1回にし、これもA氏に誘われ、月数回バトミントンを始めることができた。(コロナ過の中、肘の故障で断念 22回)

スキー

スキーはほとんど上手くすべることが出来ないが、まだB型肝炎が思わしくない時、高校のバレー部同窓生で、兵庫県のハチ北高原スキー場にツアーで行き初めてのスキーをしたが、感想としては疲れ切ってしまった記憶しかない。

それから後、近場の滋賀県の比良山スキー場や国境スキー場、琵琶湖バレースキー場、比叡山スキー場でスキーを細々と楽しんだ。

本格的なスキーリゾートでのスキーは、長野県志賀高原スキー場と白馬乗鞍スキー場で数日間スキーをした。その他では、石川県金沢セモアスキー場など。

登山を兼ねた山スキーでは富山県の立山で、スキーの裏にシールを付けて、山を登る春山スキーを体験した。

今現在、存在しない比叡山スキー場や朽木スキー場、広河原スキー場でもスキーをした記憶がある。

スポーツ観戦

自分にはできないが、ラグビーをはじめとして、多くのスポーツを観戦している。とりわけ高校ラグビーは中学3年で京都に来て以来、父に連れられ東大阪の花園ラグビー場へ50年近く毎年かよっている。父の満州時代の旧制中学(撫順中学)が2連覇しているのだ。

今は、高校時代のラグビー部の友人N氏と一緒に観戦している。

ラグビー、サッカー、野球、ソフト、アメリカンフットボール、アイス・フィールド両ホッケー、テニス、卓球、陸上競技、水泳、水球、スピードスケート、フィギュアスケート、カーリング スキー スキージャンプ、スノーボード、ボブスレー、フリークライミング、柔道、剣道、フェンシング、マラソン、駅伝、思いつくまま書き出したが、まだありそうだ。

ここで1つ言えるのは、漫然とこれらのスポーツを見ているだけで、何故かルールがおぼろげに分るようになることだ。本当に不思議なことである。

これから東京オリンピックを控え、大いにスポーツ観戦を楽しみたい。

ジャイアントキリング

人は「判官びいき」をする。スポーツはあらかじめその実力がはっきりしていると、勝敗も自ずと予想通りになるものだ。それがひっくり返った時、人は熱狂する。

ラグビーは、実力がありのままに現れるスポーツだと言われ、番狂わせが起きにくい。

その為2015年のラグビーワールドカップで日本が、南アフリカに勝った時は、興奮と共に、涙が止まらなかった。当時日本の勝は、100分の1くらいの確率だと言われていた。

そして今、ラグビーワールドカップが日本で、開催されている。日本の第2戦が世界第2位のアイルランドだった。日本は9位、同じく勝つことは非常に困難だとされていたが、又しても日本は19対12でアイルランドに勝った。涙涙と興奮だ。だが試合内容では、日本に悲壮感はなく、淡々と勝利した感がある。日本の実力が確実に上がっていて決してジャイアントキリングではなかったと思う。

更に、サモアに勝ち、因縁のスコットランドにも貫録勝ちし、堂々ベストエイトへと進んだ。興奮と落涙の日々が続いていた。そして10月20日南アフリカに遂に敗れた。涙がとうとう尽きる時がきた。感動を選手に感謝したい。さあ先へ進もう。

ウエブ・エリス・カップを伏見で見ることができた。

野球の試合

このような番狂わせを我々に置き換えると、思い出される野球の試合があった。

それは、元の職場にA、B、Cのチームがあり、Aの我々は、楽しみと健康管理程度の思いで集まったチームで、高校野球経験者のI氏を中心に、ピッチャーK氏が切れの良い球を投げ込んでいた。

Bはピッチャーで甲子園を経験した選手がいて、比較的年齢の高い、老練なチームで、Aはいつも試合に負けていた。

Cは。高校野球経験者の若い選手が多くいて、組織的な野球をし、社会人リーグにも加入するようなチームだった。Bもよく負けていた。当然AはCに歯が立たないはずだった。

そんな中、西京極球場の大会出場権をかけて、この3チームで総当たりの試合をした。当然のように、我々はBに負け、BもCに負けて、AとCの最終戦をした。

前評判はCの勝ちだったが、いざ試合をすると、大接戦になり、Cは草野球にもかかわらず、敬遠したりなりふり構わず勝にきたが、結局、我々のサヨナラ勝ちで試合の幕が下りた。

あの試合中のハラハラドキドキと、勝利の瞬間の興奮と爽快感は忘れることが出来ない。

57年ぶりの東京オリンピックについて

遠い57年前、長崎松浦飛島の小学3年生の時に見た、東京オリンピックが2021年帰ってきた。

コロナ禍の中、最後まで無観客を含め、開催について賛否両論の中、どうなるのだろうかと思いながら観戦させてもらった。

思いのほか日本選手の活躍が多く、メダル獲得数も過去最高で、アメリカ・中国に次いで3位にまでなった。選手の活躍に興奮し困難に立ち向かう勇気ももらうことが出来き、競技の視点から見れば成功なのだろうと思う。

他方、気にかかることも多くあった。それは開催期間中のコロナ感染者の急増である。

また、メディアの対応も、コロナ関連の番組が極端に減り、感染の注意喚起もなくなり、メダル獲得に歓喜しあたかもコロナ禍が安全・安心な方向に進んでいるかのごとく、世論・世相をあおったような状況に、大いなる違和感を覚えてしまった。

さらに、政府やオリンピック関係者の発信する、例えば「オリンピックはコロナ感染拡大にはまったく関係ない」との言葉や、1つ1つの情報のずれなどにも違和感を通りこし怒りさえ覚えた。

「オリンピックは大成功だった」が一方的に流されたが、庶民・国民はそれほどお人好しではないと思う。現状を冷ややかかつ冷静に感じ取っておられると思われる。このずれも違和感の1つだ。

2021年8月12日現在でこのようにオリンピックを個人的に評価しているが、これからもしコロナ感染者が爆発的に拡大することになれば、その評価は一気に変わることになるだろう。その意味からも今回のオリンピックはまだまだ終わってはいないと思う次第である。後の評価はいかに、である

大谷翔平選手について

100年に一度の災害の話題が頻繁に報じられるようになったが、スポーツの世界では、アメリカ大リーグベースボールで、大谷翔平選手の二刀流(2021年最終成績、ホームラン46本、投手成績9勝 ヒット、打点、得点、投球回数、奪三振の5部門で100の大台を超えた。盗塁26、156奪三振、4試合で申告敬遠を含め13四球)が良い話題として、100年に一度の出来事で大いに盛り上がった。

ベーブルース以来の二刀流で、大谷選手と同じ時代に生きていることに、市井の無名の者としても嬉しい限りであり、更なる活躍を祈る次第である。

そして、2022年8月10日、ベイブルースが1918年に達成していた投手の二桁勝利と打者の二桁ホームランを104年ぶりに達成した。2人目である。

再びジャイアントキリング

ラグビーワールドカップでの日本のジャイアントキリングがあったが、2022年11月23日サッカーワールドカップにおいても、カタールドーハで日本がドイツに2対1で勝利するという事が起こった。「ドーハの奇跡」などと言われ始めた。

そして、コスタリカに負けて崖っぷちになった日本だったが、再び12月2日スペインに2対1で勝利

サッカーについては、おそらく日本は上手くいっても引き分け、勝利するなどとは予想していなかった。まさに「手のひら返し」「にわかファンに変身」などと言われても仕方がない状況だと思う。

思い出すのは、1993年10月28日初のワールドカップ出場をほぼ手中に収めた中、アディッショナルタイムにイラクに同点にされ、出場が出来なかった「ドーハの悲劇」。

その日は、今のようにテレビの放送はなく、ラジオで試合を観戦していたように思う。「入ってしまった」との実況に唖然としてしまった。翌日以降映像を見て、うなだれ立つことのできない選手を、オフト監督が手を取って励ましていた光景が目に浮かんでくる。

その4年後のフランス大会に日本は初めて出場したが、予選の立役者の三浦知良、北沢豪などがメンバー落ちをしたことなどの遠い思いがある。

その頃を境に、サッカーに強い応援意識が薄れてしまい、試合があれば見る程度になってしまった。

今回、その時選手としてピッチに立っていた、森保氏が監督として采配を取ったことが、何か因縁を感じてしまう。

これで、日本のサッカーは新たなレベルに脱皮したのではないだろうか。日本の今後の活躍を大いに期待したい。

また、その他のスポーツについても、我々が生きているうちには無理だと思っていた、日本人の100m9秒台も、桐生選手が達成して以来、4人の選手が9秒台で走りだしている。

これからも色々なスポーツから目が離せない、楽しい状況である。

WBC(world baseball classic)について

WBC2023は、全勝で日本が14年ぶりに優勝した。準決勝メキシコ戦あたりから大きな山が現れた。3−0でリードされた中、吉田選手が3ランを見事な技術で放ち、接戦になった。4−5で9回裏、大谷選手が二塁打で出塁、次の吉田選手がフォアボールで歩き、一二塁となった。そしてここまで不信にあえいでいた村上選手に回り、うっぷん晴らしの二塁打を放ち、代走の周東選手がサヨナラホームインし、漫画のような劇的ラストで決勝に進んだ。

決勝は、アメリカ戦。ホームランで1点先取されるが、その裏、復活した村上選手が一発ホームランで同点とし、ここまで大活躍の日系アメリカ人、たっちゃんことヌートバー選手のセカンドゴロで、2−1の勝ち越し、その後岡本選手のソロホームランで3−1とリード。8回に第二回大会の優勝投手のダルビッシュがソロホームランを打たれるも、9回3−2で、抑えに大谷選手が登板し、エンジェルスの同僚トラウト選手と、漫画のような対戦で、三振を奪い、優勝投手となった。

だれが、このシナリオを用意したのだろうか。

これを見て、第一回大会(2006年)を思い出した。父が脳梗塞で倒れ、介護老人保健施設に入所し、介護という重苦しい時間の入り口にいた頃で、父と母と3人でこの優勝を父のベッドで見ていた。

介護施設中で歓喜があふれたことを思い出す。あれから父、2人の叔母、母を介護の末に見送った。

WBCは単なるスポーツという以上に、勇気をもらえるイベントだと思う。

追記

パラスポーツの車いすラグビーを見た。世界選手権で日本が初めて金メダルを取った試合だった。余りの迫力に見入ってしまった。どこがパラスポーツなのか理解できない迫力だ。普通のスポーツの接触プレーは、肉体と肉体の接触だが、車いすの接触は、ある意味交通事故を思わせる。恐怖感はないのかと思った。とにかくすごい迫力である。一度見ていただきたいと思う。

そして、東京パラリンピックが今開催され、この車いすラグビーを見ているが、相変わらずさらに迫力を増したプレーに見入ってしまっている。頑張れ日本!

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