哲学ではないが

どうして自分が今存在するのか。人生の意味は。宇宙とは何なのか。

これから未来はどうなるのか。生まれたことの意味とは。今見たり感じたりしていることは本当に現実なのか。などなど決してきちんとした答えはないように思われるが、考えてしまう。

最近、人生残り少ないなどと考えることもある。その上で人生の意味を考えた。

生まれた瞬間から余命80年あまりの進行性の重病にかかり、死に向かって進んでいることは確かな真実である。決してこの現実は避けられない。

その前提で、時間が限られているなら、死にこだわっている時間などないのではないか。いかに生きるかを考え、興味のあること、目標に向かうこと、辛くても楽しいことを探し求めること、それが生きる意味ではないのか。

その中で、芸術であったり、政治・経済、社会、最も身近である人間関係など、人生を彩り、また影響されたりする多くの事柄を身にまとうことになる。

そして、どうしても決められた時間が、病気やその他の出来事で左右されるのではないかや、生活上の問題、死の恐怖などに悩まされてしまう。

しかし、悩む暇はないのだと思う。

体験から死の恐怖には、2通りあるように思う。

1つは小学3年の時や中学3年の時の、タナトフォビア(私は観念的・想像的恐怖と呼びたい)である。とにかく、何を考えても離れず、如何に理屈をひねっても解決・克服できない恐怖感。何度も忘れかけた時に、不意に現れる。

もう1つは、B型肝炎が急激に悪化した時の、肉体的な危機の場面での恐怖感。強烈な身体の衰弱に陥り、症状に耐える感覚で、今も意識として残っていて、健康維持を無意識に考える抑制心理である。不思議に辛く苦しいという思いであるが、恐怖心そのものは継続的に表れない。思い出のような感覚だ。

こう考えると、死の恐怖は、想像的なものと本能的なものに区分できるように思う。どちらも、危険からの回避のための、遺伝子と脳のなせる業か。

中学2年の時、柔道部の友人に〆られ、気を失いかけた。すーと意識が遠のく瞬間を記憶している。

そんなことを考えてしまっても、現実に今生きている。楽しく生きることに集中しょう。

今を生きているということ(進化の頂点)

今を生きているということは、生命誕生から私まで途切れることのない命の繋がりがあったことを確実に表わしていると思う。

微生物の時代、魚類の海の時代、地球全体が凍結した時代、恐竜の時代、隕石が衝突した時、人類が出現した時代などそれぞれの時代のどの時も、私の先祖は何らかの形で確実に存在していた。

長い命の連鎖だという事に驚嘆する。

我々の命も生命現象の中の1つにすぎないものなのだろうか、そんなことを思ってしまった。

空間について

今見ている空間と、過去に見た空間について考えてみた。

目の前の風景は、現実そのものだが、記憶の中の空間は、まさに記憶の中のもので、それはバーチャルで、映画のマトリックスのような現実ではないような気がする。

その中で、過去に居たところの写真を送ってもらったりした時、過去のものだと思っていても、今も実際に存在する現実のものとしての風景・空間があることに気付かされる。

ただし、時間の経過を経た、やはり過去とは異なったものであることも同時に気付かされるのだろうか。

また最近、有名な物理学者のホーキング博士の事を思い出した。重い病気で肉体の機能がほぼ停止しているにもかかわらず、素晴らしい宇宙論を打ち立てられたことは驚愕である。

頭の中は、我々の想像できないくらい、宇宙全体を駆け巡っておられたのではないか。

肉体と精神の均衡が当たり前だが、精神が肉体を超越した事例かと思われる。健全であるが故に肉体から精神が、自由に解放されることはないのか。

また、存在する自分と周りの世界を考える時、取り巻く大いなる世界を認識できた時、自分が存在することは全てにおいて永遠であり、虚無などというものはあり得ない(2020.6.30)

○○には与えられる全ての愛を注ぐのみ。心配は無限、喜びも無限。生は謳歌、死は帰還、生死は永遠の花園。

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