禅の謎

私の家族の宗派は、浄土宗であるが、京都に移り住んだこともあり、決まったお寺がなかった。

祖母が亡くなった時に初めて檀家としての菩提寺が決まった。その後この菩提寺に多くの家族が世話になることになる。

私の宗教への関心は、母の影響に寄るところが大きい。

そんな状況で、B型肝炎の発病、再発。そして夜間大学と仕事が行き詰まる中、何とか心を落ち着かせたいと始めたのが、座禅である。

宇治黄檗の、とある禅会に飛び込みで参加した。20歳の時(1975年12月)である。その会に月1回、1時間の座禅を40数年通った。

その間、B型肝炎、仕事の問題、結婚、子育て、介護など多くの問題・課題を持ち込み、どうしたものかと思案しながら座る(無心にはなれなかった)こととなった。

禅では(この場合は臨済禅であるが)、「隻手音声」、「父母未生前本来面目」「達磨安心」、「婆子焼庵」などの公案が、さとりを開くためのヒントとして用意されている。

私は、公案に取組む機会がなかったというか取り組まなかったというのが、実情である。公案は謎である。さっぱり解らない。本はたくさんあり、私も持っているが、読んで理解するものではないように思う。

ある事情で、その会を退会し、今は建仁寺と東福寺、更に南禅寺の禅会に、相変わらず、月1回参加している。

建仁寺座禅会

建仁寺茶話会

東福寺禅堂

内部

南禅寺庭園

もうだいぶ前からであるが、座り始めると直ぐに、コックリコックリと眠気に襲われるようになった。不思議なことに、どんなに悩んでいようが、いざ座ると眠くなる。いやかえって悩んで夜も寝付けない状態の時が、一層眠くなっているように思う。これも不思議である。

最近、60歳を過ぎて、2月の早朝6時半からの座禅に参加したが、さすがに寒かった。寒さに恐ろしさを感じるくらいに寒かった。これからも継続するつもりだ。

そんな中、相国寺のとある禅会に参加することになった。専門道場で静かに1時間座ることが出来、久しぶりに充実した座禅だった。さあこれからと思っていると会員の皆さんは参禅し、公案に取り組んでおられるとのこと。さすがに私には参加は無理なのかと思っていたが、参禅しなくても入会を許可していただいた。感謝である。

そして二回目の参加で、アメリカ人の先生の提唱を聞くことになった。どんな感じなのかと思っていたが、聞くうちに自分が公案に取り組まなかった今までの人生における禅について、病気のことで頭が一杯で自分には公案は無理だということ、そして、書物を読んでわかるものではないという思い込みがあったことなどを理解することができた。

確かに本を読んで理解するものではないが、公案を透過するための下準備として多くの、例えば碧巌録や無門関などの書物があるが、二十歳から座禅をし、万福寺、建仁寺、東福寺の館長猊下の提唱を聞いたりはしたものの それらの書物は少ししか読むことはなかった。

時すでに遅しである。70才間際の今、さすがにこれから公案をなどとは思いもよらないし、結局若い頃から熱意がかけていたことが原因なのだろう。

これからも静かに座禅をし、提唱を黙って聞くこと以外に私にできることはないらしい。これも私なりの禅とのご縁なのだろう。後悔はしてはいないが。

最近の禅会の提唱を聞き、思ったことだが、人類(ヒト)が煩悩に悩まされることになったのは、20万年前に遺伝子の変異で大脳が発達し、高度認知機能例えば自己認識などを獲得したことによるものらしい。このことはいわゆる「パンドラの箱を開ける」ではないのだろうか。今までこの高度認知機能という神の能力に自らだまされ続けたが、これからも騙され続けるのだろう。これを何とか「扇」を活用して乗り切って行きたいと思った次第だ。

相国寺

仏縁なのか

宗教や禅について記しているが、そんな中でも、「はっ」とすることに最近少しずつ接することがあったので追加することにした。

まず、私の家は浄土宗だが、両親を含め私の上位の代の人は亡くなった今、父から父の兄が知恩院の僧侶をしていたことを聞いたことを思い出した。その知恩院がいつでも行ける所にあることに改めて気が付いた。

母のご先祖についても、愛知県の長篠や大分の中津の地に、それに関連する場所があることを母によく聞かされていた。ところが、今年2023年の11月に分かったことだが、まさか京都にもそのような場所があるとは予想もせずびっくりした。母と生前に一緒に行くことが出来たらさぞ喜んだことだと思う。

それが、建仁寺の中の塔頭の久昌院である。

禅会についても、前述のように宇治市黄檗万福寺の禅会に長らく参加させてもらい、退会後も建仁寺、東福寺などで静かに座らせてもらっているが、その東福寺の南門の近くの塔頭に家内の父親が眠っていて禅会のたびにその塔頭に向かって手を合わせている。

さらに驚いたことには、万福寺の禅会の時の先輩の方で、退会後も年賀状やお手紙をいただいているが、今年2023年の暮れの大掃除の時、その先輩からの8年くらい前の手紙を見つけ、中を見ると、ある禅の雑誌が数ページ同封されていた。その記事の中の老師の名前を見て驚いた。

なんとそれは2023年6月から参加した相国寺の禅会の老師の名前だったのである。

他愛もない繋がりなのかも分からないが、禅、禅、禅、仏、仏、仏に何か囲まれている感覚に今は驚いている。

これが仏縁というものなのだろうか。

お茶

座禅に参加することで、思わぬ体験にも色々出会った。お茶もその一つだ。

座禅の後、お抹茶が振舞われることがあったが、ただお茶を頂くというのではなく、そこに精神文化としての「何か」を感じることができた。作法とかではない「何か」だ。

裏千家今日庵

禅は、仏教創始の釈迦から達磨を通じ、日本に来た。体験できる幸せを思う。

鎌倉建長寺釈迦像

禅は謎である。

また、宗教全般について考えてみると、特に一神教と多神教について、

まず一神教だが、信じる信仰対象が唯一神、最高神であるがゆえに、他の宗教を認めないということは、相対する別のものがあるということを自ら認めていると言わざるを得ないと思う。他の宗教もすべて包み込んで、唯一神・最高神ではないのかと考えてしまう。

更に、多神教は、あらゆる神を受け入れるが、その姿は、すなわち唯一神の表れではないのか。

このことから、宗教上の対立は、もはやこの世界では存在しないことは明らかだと思う。

それではあの戦乱・混乱は何なのだろうか。

シャカ、モーゼ、孔子、キリスト、ムハッマドなどの神と称えられる賢人たちが一堂に会して、今の世界の状況を見て、どう思うのだろうか。

神は存在すると思うし、すべてを包み込んでいる。そして神は利用されてはならない。

トップページ

.

.

.

inserted by FC2 system