感情の移ろい

人間は感情の動物であり、気分が良かったり悪かったりする。そしてなかなかコントロールすることが難しい。同じ事象でも、気分・感情の居所で、全く見え方が違ってしまう。

例えば「とらわれ」「不快」「心地よさ」「感激」などはどこから来るのだろうか。そして本当にコントロールできないのだろうか。

思い切って、心理学などをしっかり学ぶと何とかなるのだろうかと思ったりもするが、感情の上下に振り回されながら、日々の生活に流されている。

心理学の効用が、ある程度ハッキリ見えたように思ったことがあった。

それは、スポーツ心理学だった。あの2015年ラグビーワールドカップの時の日本チームのメンタルコーチとして、若い女性の方が就かれ、日本チームの成績とともに話題になった。

この方は、NHKの逆転人生というような番組にも出演され、詳しく知ることができ、「なるほど」ということが多くあった。

「とらわれ」「不快」「心地よさ」「感激」などについて考えてみると、自分の持っている価値観に基づいて感じられているように思われて仕方がない。

人それぞれ、このことが大切だとか、こうありたいなどというものを少なからず持っていて、それをベースとして、実際の出来事を評価し、感情が揺れ動いているのではないかということである。

人生の色々の場面、例えば、受験、就職、結婚、仕事などの舞台に立つが、そこでも、心は激しくも緩やかにも動いていく。それを社会秩序の許される範囲で、自分の価値観に従ってコントロールしながら生きていくのだろう。

私の場合は、殊の外、感情に流されることが多い、特に、10代のB型肝炎の発病後は、精神的に過敏になり、感情のままハラハラドキドキの生活をしてしまっているようで、よくここまでやってこられたと思う。ありがたいことだ。

また、発病前は、すべてが当たり前に用意され、努力次第で物事は進められると思い込んでいた帰来がある。安心しきって生活していて、不安を深刻に感じることがなかったようにも思うが、受験に失敗ししかも、厳しい症状を伴う急性B型肝炎を発症してしまい、いわゆるトラウマになってしまった。

それからは、物事が進んでいても、また何か悪いことが起きるのではという事がすぐに頭に浮かんできてしまうような心配性になって、今日に至っているように思う。

不快な時は、とにかく速やかに脱したいと思うし、心地良い時は長く続いてほしいと思うものである。こんなことを書き綴っていると、不思議なものだとため息が出てしまう。

こんな感情の「揺らぎ」が人生なのだろうかと達観したいものだが、私は感情に流されっぱなしである。

それに、会話中感情が入りすぎて声が大きくなったり、早口になったりしてしまい、よく相手から「怒らないように」と諭されるような傾向が多々ある。恥ずかしい話だが、最初から意識している時は抑えられるが、咄嗟の場合よくやってしまう

感情を上手くコントロールできれば、人生はもっと豊かになるのだろうか。

そして、自分の価値観を変えることができるのだろうか。

また、自分の価値観に沿うように、周りの状況や環境を自分の力で変えることができるのだろうか

もっと具体的には、長年私が陥っていることは、心配事があると、そのことを、主体者を含め周りに声を出して話してしまい不快にさせてしまうことが多々ある。どうしたらいいのだろうか

さらに突然の何気ない出来事を、イライラの原因にして、不快感を味わってしまうことも多い。これはひょっとして、病的な精神状況ではと疑ったこともある

なかなか難しいことで、これと言った解決策も見いだせないが、1つだけはっきりしていることがある。それは、感情は「移ろう」ということ。何かしら少しずつ変化してしまい、また次の感情へと変わってしまう。

今思い出したことで、心理学を今更学べないと言っていたが、仕事に完全に行き詰まり、長期に休んだことがあったが、その時、精神科医のリワーク講座を受講したことを思い出した。心理学を学んでいたのだ。

自律訓練法(リラク・セーション)、ストレスマネージメント、アンガーマネージメント、マインドフルネス、認知行動療法などを12週間にわたって学んでいた。

しかし、このことも忘れていた。こんなものなのだろう。

さらに最近考えるようになったことだが、現職の時なかなか健康管理、特に食事の管理というか、食事の量のコントロールなどまったくできなかった。

摂取量に見合う運動量を確保することは大変難しいことだったが、リタイヤ後運動しないのなら、必要以上に食べないように心掛けてきた。

すると空腹感に何となくだが、快感を覚えるようになっている。なぜならお腹が減るということは健康な証拠だと毎回感じるからだ。我々の御先祖たちはどちらかというと、飢餓の時代が長くそれが当たり前の状態だったのだろうと想像する。

飢餓の時の感情の在り方が、当たり前だったのではないだろうか。

感情とのお付き合いはこれからも続くし、まだまだどうしたらいいのかわからないままで、振り回され続けるのだろう。

なかなか進歩を見ないでとうとう高齢者の仲間入りをしてしまった。

皆さんはどうお考えになりますか

右脳左脳(心配事の発生メカニズム)

感情のコントロールが全くできないものが、この項目をここに記すのはいかがなものなのかと苦慮するところだが、カウンセリングやwebでの検索で「右脳左脳」というものに行き当たったので、アップしてみることにした。ただし、あくまで個人の見解であることをご考慮いただきたい。

人生の大部分で、心配事を抱え込んで生きてきた気がするが、死から始まって、いじめ、勉強、友人関係、転居、病気への恐怖 仕事上の問題、家庭問題などから、もっと細かい飛行機の搭乗、雷などの天気、騒音などが気にかかってしまって、一般にも気になるものなのだろうが、なかなか流すことが出来ず抱え込んで、取り越し苦労に明け暮れて人生を過ごしてしまった。

さらに、仕事でパワハラ気味の叱責を受け、うつ状態になったりと、精神の弱さを恨みながら、家族にも大きな負担をかけているのではないかと気にする有様で、まことに疲れ果てる人生だ。

その間、リワークで心理学を3ヶ月間くらい学んだりもしたが、一向に心配性は治らない。自分でもどうでも良いことは知識というか理性としては分かってはいるが、考え込んでしまい、その時の不快感から解放されることが、いまだにできない状況である。

カウンセリングを受ける時も、変に思われないかなどと頭の中で空回りする有様だったが、考えるエネルギーが有り余っているのではないのか、心配に考えがいかないようにして、興味をはぐらかしていったらどうか、などの指摘を頂いたりもした。

そんな時、ネットで「右脳左脳」に関する記述を見つけた。

右脳のマインドの基本は、深い内なる安らぎと愛のこもった感覚で、

現在の瞬間しか気にしない

楽天的

冒険好きで社交的

決めた枠内の規則や規範に縛られない

創造的でカオス的

直観的

などと記されていた。

それに対し、左脳のマインドの基本は、外の世界と意思を通じ合うためのツールで、あらうるものを分類し、組織化し、記述し、判断し批判的に分析する感覚で、

完全主義者

クソ真面目

正しい・間違っている、良い・悪いで判断する

複数の仕事をこなせる

うつ状態になる可能性がある

物語を作り上げる能力に長けている

などとあった。

今までによく、考え込んでイライラしていると、不意にこだわる事柄が、スーとどうでもよくなる感覚があったり、逆にこれも不意にイライラが起こり不快感に覆われることがあった。

これは、意識が左右の脳を行ったり来たりしている現れで、私の長年の心配性が起こるメカニズムはこれではないかと思ったところである。

思えば、心配は多くの方がすることで当たり前だが、それが心の中で凝り固まってしまい病的なものにまでなって生活に支障をきたしている状況は、まさに病気の域に達していると思う。

いかにして病的に集中してしまった左脳的感覚から、右脳的な感覚に、バランスよく引き戻せるかが、私のイライラビクビクの状況の改善策ではないのだろうか。

過去を憂いても仕方がないが、これまでどれだけの時間を、イライラに振り回されてきたのか、時間の浪費を嘆かずにはいられない。

右脳左脳のバランス、この辺りを上手く活用して、病的心配症から単なる心配事にしていけるのかが、これからの人生を進むうえで必要となるのではないかと思った次第である。

あくまで、個人の見解であることを再度申し上げるが。

またまた不安への思い

本当に自分は弱くて強くなれないのかを考えると、家族・友人など他者からの精神的自立ということに思い当る。

これがまったくできていないので、新しい不安を作り出しているように思う。

最後はボロボロで、一人で消えていくという覚悟ができて、初めて精神的に自立ができ、これで不安は消えるのではないかと考えた。

しかし、自律も覚悟も本当にできるのだろうか。人生でまったく不安の克服ができずにきて、不安に流され続けてきた人生に勝利などないのだろうか。

人間関係を遮断すれば、自立にたどり着くなどとも思ったが、人生の最後の時に心配すれば良く、生きることだけに集中すれば・・・・・

結局は答えにたどり着けない堂々巡りを繰り返している。

帰納と演繹

物事を考える上で、方法として帰納と演繹というものがあることは、数学を学ぶ中で理解してきたように記憶している。

具体的な数学での問題は、今となっては思い出すすべもないが、自分の思考方法を考える時、私は帰納的に物事を考え判断しているように思えて仕方がない。

何が言いたいかと言えば、帰納的な方がみんなそうだと言っているわけではないが、多分に物事の結論を元に行動するいわゆる「せっかち」なのだ。

色々な事象が目前に現れるが、「こうなのだ」と判断をすぐに下してしまい、そのことに基づいて行動を起こしてしまっている。

一つ一つの事象を、じっくり確認し、思考を積み上げて結論を出し、行動することが出来ないように思う。じれったいのである。

このようなことでも、感情が揺れ動いてしまうのかもわからない。

しんがりの思い

失敗談ばかりのホームページであることは、幾度となく述べてきたが、もう一つ思い出すことがあった。

それは、競争と言う訳ではないが、みんなと同時にスタートをして個々に進める事柄で、自分の人生を振り返りながら見てみると、ほとんどが最後尾というか、しんがりであることに気が付いた。

順番を待つ時、ほとんどしんがりなのだ。だから、何か同じような事象に遭遇すると、真っ先に「最後になるかなあー」と思うと、やっぱり後であった。

個々に上げるときりがないし、努力を伴う場合は、それこそ自分自身の努力不足を棚に上げてと言うことになってしまう。「どんなことで」はやめておこうと思ったがそれでは具体性がないので少しだけ。

例えば、採用後の最初の人事異動の時の内示で、一般に午後3時から開始されるように時間があらかじめ決められ、一斉に進められるが、その時は、内示後移動する人が、「私はどこに」とか話出したが、「君も内示があるから待ってくれ」と言われた私は夜の7時前になっても一向に内示されなかった。

あの時の不安感と言うか困惑感は鮮明に記憶の中にある。その前後も色々待たされた経験が多くある。

最近では、B型肝炎の裁判和解、通常は1年から遅くとも2年くらいのところが、4年6か月かかった。別段支障があって頻繁にやり取りがあった訳でもなくである。なぜこんなにかかったのか詳しく聞きたいが無理なことで、人生幾度となくこのようなことに遭遇してきた。

そして、年老いた人間が、こんなことで苛立つのは恥さらしなことだが、あえて書くと、コロナのワクチン接種予約である。今回も真っ先に「最後になるかなあーと」思っていると、知合い20人ちかくと、最初はなんの気なしに「ワクチン予約」について話し、そのうち故意にこの話題を持ち出して聞くと、やっぱり今のところ一番遅いことがわかった。

こんなことが度重なると「なぜ自分だけが」と毎回いじけた考えに落ちっているが、ここまで来ると、自分の順番はあらかじめ「しんがり」なのかもわからないと、今、音楽を聴きながら、思わず笑ってしまった。

遠回りで待たされることの多い人生であることに気付くと、その待たされる時間の間に新たな何かに巡り合うのかも分からないし、色々な物事の締めくくりは自分が締めるのだと妄想してしまうことさえある。

B型肝炎訴訟では、患者支援活動に参加することになった。

そうは言っても、ワクチン接種後の宴会のお誘いやアルバイトの再開などが、少し時間的余裕はあるもの、近づきつつある今、他の方は1回または2回接種されての参加に、思うまいとしてもどうしても、焦りと共に不安感を感じてしまっている。人間性を試されているのだろうか。そしてどうすればいいのだろうか。

今回のワクチン接種の予約も、首相が目標として高らかに宣言した7月末完了を完全に超えてしまっている。負け惜しみかも分からないが、この巣篭りの時間で何か新たなものを発見できるのではないかとさえ思っている。

しかし、前にも書いたが、感情は一時的なもので、どんなに忘れまいとしても、意思の弱さもあるのか確実に移ろってしまう。

この苛立ちを感じながら、何かの展開を期待する「しんがり」の思いを楽しめたらと思うところである。そして、速度を増す時間の速さが緩やかになる時でもある。

「私の方が後よ」などと言わないでください。

と、半ばヤケクソ状態だったが、どうしたことか京都大学ips細胞研究所の、ファイザー製新型コロナワクチン抗体効果の、有効性期間の確認治験に、遅いが故に参加することができた。

これは細い糸に導かれたような話で、ノーベル賞の山中伸弥先生のブログ?(HP)を新型コロナ流行の当初から見ていたが、偶然にも治験の情報がアップされていて、日程などを確認すると、自分にも参加できそうな感じだった。

ところが、ワクチンの接種予約がなかなか決まらず、このことも苛立ちの要因にもなってしまうとともに、どんどん治験の日程がうまっていった

やっと接種予約が取れたが、すでに日程が遅すぎると思い込んで諦めてしまっていた。後日改めて確認すると、残り少しの日程が自分でも参加できるものであると分かった。

そしてすぐにメールでエントリーすると、即座に「要件を満たしていない」との返事が返ってきたが、あきらめがつかないので、なぜなのか問い合わせることにした。

3日経ってもなかなか返事がなく、回答などないものだと諦めてしまっていると、メールで返事をもらうことができ、どの部分が要件を満たしていないのかわかるとともに、申込みも過ぎていると考えたが、再度不備な部分の説明をメールで返し、治験はきっぱり諦めることにした。

ワクチン接種日程が決まらず、決まっても遅い日程に、この治験までが絡んで、「今回もまたダメ」な状況にため息しかでなかった。

ところが、治験日程も過ぎたと思っていると、自宅の電話とスマホに同じ番号の電話が夕方掛ってきていて、最初は迷惑電話だと思って出ることもしなかった。

でもよく考えると、迷惑電話が2か所に掛るかと疑心暗鬼の中、返信の電話を掛けると、治験の窓口で、色々話すと「参加」できるとのことで直ぐに申し込むことが出来た。

こんな細い糸に導かれたような出来事に驚いている。

少しでも人の役に立ちたいと思っていたがこの待ち時間でこのようなことが起こった。

「しんがり」も捨てたものではないところか。

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