両親からの伝承と親類について

両親や親類とは、空気のように長期間接してきた。色々の思い出がある。共有してきた時間は、それぞれの自分史になるが、聞いたことを思い出すと、義父は、自分の歩みを手紙として書き遺してくれたが、両親について色々聞いたのもかかわらず、今思い出すことは、実に少ない。そんな伝承を記すと、

父は、佐賀県の出身で、家族で満州に渡って生活していた。出身校は撫順中学。熊本大学入学が有力だったが、家庭の事情で、南満州鉄道、撫順炭鉱に測量技師として就職。終戦まで勤務。

引き揚げ後、長崎佐世保、松浦御厨、佐賀伊万里の炭鉱技師として働く。

福岡筑豊田川で、母と結婚。長崎松浦飛島炭鉱の閉山に伴い、佐賀武雄を経て。京都へ 

現在は大手になっている、環境試験機メーカーに再就職し、総務課で定年。その後数年間本社守衛として勤務後、完全リタイヤ。

元気だった最晩年、2年近く、月一回私と二人で、地元京都で、居酒屋などで会食を楽しんだ。

父からの伝承

父方は福岡芦屋の呉服問屋で、祖父に連れられて、店に行くと、祖父のことを「若旦那」と店の人が呼んでいたとのこと。

JR在来線、関門海峡トンネルは、難工事だったというのが口癖だった。

南満州鉄道時代、特急アジア号に乗ったことがあった。

父の兄(私の叔父)は浄土宗知恩院の僧侶で、満州で反戦を唱え監禁され、病気で若くして亡くなり、満州の荒野で父が荼毘にふしたとのこと。その叔父も伏見の菩提寺で眠っている

撫順中学の数年後輩が全国ラグビー大会で全国連覇している。

長崎松浦の飛島時代、博多まで何度も日帰り出張をしていた。

母は、福岡筑豊出身、9人姉妹の末っ子。幼い時から体が弱く、長生きできないというのが口癖だったが、93歳で大往生する。

母からの伝承

長姉の家族と、現在の北朝鮮元山で旅館を営み、それを手伝う。

19歳の時、一人で病気治療のため、元山から朝鮮半島を列車で南下し、大分の別府の、別の姉のもとに来たことを聞かされた。

引き揚げ後、一時期、大阪の大手印刷会社で働いていた。

ご先祖ゆかりの建仁寺久昌院

福岡筑豊田川で結婚、長崎松浦飛島時代、小学校のPTAの副会長をする。

父が他界後、墓参りに二人で行き、昼食やその後喫茶店で、コーヒータイムを楽しんだ。

祖母の思い出

父方の祖母は佐賀の人で、孫である私が唯一話すことのできた祖母である。

最後の1年を佐賀武雄から引っ越してきて我々と過ごした。買った家とは言え狭いところで、家の中がギクシャクしたのか1年で他界した。

そんな日々の中で、祖母と二人っきりでお餅を焼いて食べた時間があったが、「今日は嬉しかった」とぽつりと言ったことが忘れられない。曾祖母も京都で亡くなっている。

親戚

父方の親戚については、前述の祖母の母である佐賀生まれの曾祖母が、京都北野で晩年を過ごしたが、その遠い親類に、桃山高校出身の後輩が京都に居て、親しくお付き合いをしている。母方の親戚は、「いとこ」が熊本、大分、岡山に居て、親しくお付き合いをしている。

長い年月を共に生きてきたが、一緒にいた時の記憶以外、両親・親戚の固有の情報は、情けないがこれくらいしかない。

今のコロナ禍

今、新型コロナが蔓延し大変な状況に向かっているように思えるが、世界ではコロナの対処に成功した国、失敗している国がある。日本はどちらなのだろうか。

それはさておき、我々が今生きてということは、過去の様々な時代をご先祖が必ず生きていたということも確かなことだと思う。

平和な時、戦乱、疫病の時などをご先祖は生き抜いてきたのだろう。今の我々が想像を絶する状況下で生き抜き、今につながっている。

そのご先祖が今のコロナ禍を見た時、まだまだ恵まれているとお叱りを受けるかもしれない。そして「しっかりしろ、我慢、我慢」と励ましてくれているかも分からない。

直ぐ身近では、先の大戦であろう。あの大変な国難を耐えて生き抜いた祖母祖父両親などの先人を思い、もうひと頑張りして、コロナに勝利したいものだ。

同時に、最前線で日夜奮闘されている医療関係者の皆さんや社会の基礎を支えておられる多くの方々に感謝とエールを送りたい。

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