学習・思索空間について

写真1

幼い頃から、外などで風景を眺めながら、ボーとすることが好きだった。

そして、小学生3年までは、父の炭鉱の社宅が広かったので、自分の学習空間を両親が整えてくれた。少し広すぎると感じていたことを思い出す。そして、よく家の前に座り海を眺めていた。

当時の社宅

いじめの時期は、そんな空間のことを考える余裕すらなかった。

佐賀武雄の農家でも、一応、学習空間は確保してもらった。その為かははっきりしないが成績は伸びた。

京都伏見の高校時代、狭いアパートに机を置いてもらってはいたが、6年半も親子3人で、よくこんなに狭い空間で生活していたものだと驚きをもって思い出す。

この期間、精神的にかなり不安定だったし、何より、大学受験の時だったので、両親に学習空間で、中々勉強に集中できないなどと、わがままを言ってしまった。今思い返しても、自分が集中できなかったことを、家のせいにしただけだった。両親に悪いことをしたと思う。

肝炎の発病もこの時期だった。

働き出して、どうしても自分の空間がほしくなったので、肝炎は膠着状態だったが、父に一人で生活したいと言うと、これからのこともあるのでということで、父は定年後だったが、共同で家を購入することになった。ようやく、自分の空間を確保できた。

参考

現役の仕事時代は、喫茶店でコーヒーを飲みながら、ボーと考え事をすることが、気分転換になった。喫茶店の「しつらえ」を気にかけ始めたのも、この時期である。

そして今、写真1のような書斎スペースで、このホームページや、肝炎に関係する団体の原稿などを書いたりしている。

思うに、私は、例えば、受験についても場所だったり、参考書だったりにばかり気が行ってしまい、本当に自分が集中して勉強する意思が希薄だったのではないかと、最近考えるようになった。

それは、仕事で、衛生管理者の国家資格を取るように言われ、その時は仕事ということでかなりの緊張感とともに集中させられ、一度で資格を取ることができた。このことにしても自分の意思次第だと思う所以である。

参考

今は、一人で家に居ても何かしらイライラしてしまい、結局、適度に人の気配のする喫茶店などの方が集中して、物を考えられている。

自分の書斎についての書籍が数多く出されているが、要はその個人の心地良さがどうなのかが、決め手ではないのかと思われる。学習・思索空間一つについても、色々のことを懐かしく思い出す。

教育について

物を学ぶことは、楽しいことであり、苦しいことでもある。高学歴は何のためなのか、大学受験で今も多くの学生が頑張っている。

私も良い大学にと頑張った時期があった。佐賀から京都に来る時、当時仲の良かった知人と共に京都大学に行こうと言って別れたが、4年後、その知人は京都大学理学部に現役で合格し、私は、肝臓病を発病し、浪人生活を経て、就職と夜間大学に通うという、大学受験としては、かなり大きな差になってしまった。

希望大学に合格するという一種の栄光と憧れを持って挑んだが、自分の勉強不足からこのような挫折を、10代最後に経験することになった。

大学で何を学び、後の人生にどう繋げていくのだろうか。

最近、東大卒業の経済産業省のキャリヤ官僚が、所管するコロナに関係する給付金に関して、詐欺行為で逮捕されるという事件に遭遇した。これをどう解釈したらいいのだろうか。

東京大学在学中から、経済産業省に入り、架空会社で利益を目論んでいたなどと言う話も漏れ聞こえてきている。東大に合格するという栄光の中で、いったい何を学んできたのかまったく理解することが出来ない。最高の教育を受けてこれでは、合格できなかった学生に示しがつかないのは当然だろう。

いくら教育をどのレベルで受けたとしても、正しいと思うことが通用しないことが起こったり、どうしようもない状況に陥ったりすることは、多々あることだが、それでも怒りを抑え、道から踏み外すことなく、しかも、理不尽なことから逃れる術を身に付けながら人生を歩んでいくものだと信じたい。その為の教育ではないのだろうか。

人生を乗り切る為の教育であり、社会をよりよくするために最高の行政機関で働き、社会のためにその能力を発揮するものではないのか、多くの公務員の方は、そう思って日夜業務に取り組んでおられると思う。

悪のために最高教育を利用しないでほしい、受験敗北者として望むところである。

また、私のやっかみと一種の偏見と取られるかもしれないが、東大生のクイズ番組を見ることがある。その記憶力をいかんなく発揮しておられ感心する反面、何かその能力を他の社会のために活用できないのかという違和感を持って見てしまっている。

彼らがどんな未来に向かうのか確認もしないで、このように軽はずみに記すのは失礼なのかも分からないが、その能力で、高度な創造性を発揮してもらえないのかと思ってしまうのは私だけなのだろうか。

私の例ではないが、中学・高校と勉強し、将来どんなことをしていくのかの夢を、大学に行くことを前提に探しながら進んでいく中で、そこで思い通りになる者と希望する大学に入れず挫折味わい、夢まで見失ってしまう者とが出てくる分岐点が存在する。

高等教育を受けられるという夢を勝ち取った勝者は、一種の特権階級であると思うが、その方々が少しでも世の中のために、その教育を活用していただきたいと思うのは理想論なのだろうか。

この年になって負け惜しみだとは思うが、教育とは、どの大学に行ったとかではなく、人生のどの場面でも、社会から学ぶことも含め、何時でも経験し続けることが出来る学習のことを言うのではないのかと思ってしまう。

そして、その学びを社会に対し、どんなに細やかなものであろうと、返していくことではないかと思う次第である。

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