英語学習敗北記

アメリカ独立宣言

ここでまた失敗談を記すことにしたが、こう失敗ばかり書き連ねるといささか読まれる方も馬鹿馬鹿しくなるのではないかと、危惧さえ感じるが、あえて表すことにした。

英語を学ぶことについて考えてみると、遡れば最初の興味は、長崎松浦の小学校時代、テレビから流れるモンキーズやビートルズの音楽や、アメリカのテレビドラマ「ローハイド」や「ララミー牧場」などを見て、英語圏への憧れが始まったように思う。

中学1年で初めて英語の教育を受けることになった。父が博多出張の時に、英語のソノシート?(プラスチックの赤いペラペラのレコード)教材を買ってきてくれたが、最初は、いじめのこともありまったく使うことがなかった。1年の後半には何度か使ったように思う。

佐賀武雄の中学2年では、行きたくて仕方がなかった塾に、しかも英語の塾に通わせてもらい、成績も上がった。

京都伏見の中学3年は、高校受験のための英語を必死で勉強したが、全くの別で、1970年の大阪万国博覧会がこの年で、10数回見に行き、そのうち1回はカナダからの観光客に強引に話しかけ、あまりよく聞き取れなかったが初の英会話を楽しんだ。

高校時代は、大学受験を意識しすぎて、意思疎通の道具としての英語を学ぶ意味を完全に忘れてしまっていた。ただ、初めての郵便局のアルバイト代で「百万人の英会話」のテープ教材を買った記憶がある。

そして、浪人生活やB型肝炎の発症などに翻弄され、一年後に就職し、当時、英語を使う仕事が一度あったが、夜間大学では道具としての英語の勉強は全くしなかった。

大学4年の夏に、開港間際の成田空港からアラスカ旅行に行くことが出来、旅行後半の自由時間をアンカレジの町で過ごすことがあり、一人っきりでデパートなどを散策したが、この時に英語が使えたらどれだけ有意義な時間を過ごせたかと、英語の必要性を痛感した。

帰国後数年間、仕事後の時間を利用し英会話教室に結婚まで通い、英検2級は取ることが出来た。

これ以降、仕事の忙しさに忙殺され、英語から離れてしまった。

仕事の生き詰まり感から、40代中頃、転職願望にもかられ、当時よく知られた「駅前留学のNOVA」に高額な授業料を払い再挑戦することになった。

ことはそう上手くは行かなかった。数年間は真剣に取り組んだが、またこの辺りから、仕事の忙しさを理由にしたりしながら、気分転換化して、だらだらNOVAを続けた。

一度若いフランス人女性講師から「高額の資金を使って、なぜしっかり勉強しないのか」と授業後のカウンセリングで叱責された記憶があるが、結局、TOEICを数回受験したりしたものの成績は上がらず、後半は受験すらしなくなり、体調を壊した辺りからとうとうNOVAも辞めてしまった。

これが英語学習の始末である。

その間、京都を訪れた外国人観光客に何度か道を教たり、海外旅行で現地のガイドがいない時のトラブルでガイドに間違えられ、食事代を立て替えるよう迫られるなどの英語に関する出来事には遭遇したが、スムーズに意思疎通できるレベルにはとうとうたどり着けなかった。

今更だが、その間に支払った授業料の回収ができないといういら立ちだけが残ってしまっている。

ただ今こうして、自分のホームページにこの間のいきさつを記すことで、資金のほんの一部だけでも回収できたのではないかと思う次第だ。負け惜しみも何もあったものではないが。

そういえば、2022年の今、NHKの朝ドラの「come come everybody」を見ていて思い出したが、前述のように、京都に来た年の大阪万博に行って英語を使いたいばかりに、ラジオでNHK基礎英会話を朝早く起きて聞きいっていた。中3でやる気満々の時代の懐かし思い出だ。

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